FLIP-FLAP

退院後行政書士開業その他にかまけていたら放置していました。すみません。

 ふらっと買ったコミックを紹介します。
 講談社アフタヌーンKC

 作者 とよ田みのる
 
 この作品はピンボールものです。好き嫌いがはっきり分かれる内容だと思います。私はどちらかと言うとなじみにくい題材です。
 
 しかし、この作品にはもうひとつ読み方があり、なじめない、なじめないと思っていると最後に強烈なネームが切り込んできます。

 ネタばれ覚悟で言えば「意味ばっか求めてんじゃねーよ!!!」です。

 作者は「ラブロマ」のあと休業状態で、この作品も、絵の切れのよさや表現力に比べて、どうもネームは空回りしている感じもします。
 しかし、今回のテーマも、またしても直球で、「内面の追求」です。評価や社会的位置ではなく、「内面」に沈潜する意味を娯楽に振り替えて表現している漫画です。
 
 人は「意味ばっか求め」ます。
 意味を振り切る方法論として、ゲームを対峙させるのも非常に古典的ですが、「意味論」の地平を考察しない姿勢で考察しているこの作品は見るだけではなく読むに値します。

 ただ、絵はいいです。どんどんよくなってます。ラブロマをあんなに潔く打ち切ったのはやはり惜しいです。

FLIP-FLAP (アフタヌーンKC)

FLIP-FLAP (アフタヌーンKC)

荘子 内篇

 入院中です。もっと本が読めるかと思いきや、ネットで時間がつぶれており、これは結局、頭の衰え、疲れなのだな、と思いました。思考や思弁よりも、情報を軽く流したい気持ちが自分の中にあるのでしょう。

 とまれ、そんな入院生活の中、ぽつぽつと寝る前に読んで読み終わった1冊がこれ、「荘子 内篇 森三樹三郎訳注 中公文庫」です。古書店で手に入れた覚えあり。カバーもだいぶ汚れています。入手のシチュエーションは忘れました。

 今まで、荘子を読んだことはなかったのです。だいぶ前から部屋にあったので、ぽつぽつ読もうと思っていても、何故か進みませんでした。でも、今回は、進みました。途中から気持ちが入りさえしました。

 荘子は、無為自然にとどまらず、「万物斉同」すなわち絶対無差別を唱え、あらゆる作為を嫌います。嫌うことすらも作為ですから、嫌うと言うより「事実でない」と認識していると言ってもいいでしょう。生と死は一体なのに、生だけを偏愛すること、美を立て醜を貶めること、価値観を打ち立て、差別を設ける事自体を病ととらえます。

 現実に差はあるのに、差に意味を求めない生き方。
 明らかに無理な見方であるのに、大局的には超合理的。

 荘子に同意はとてもできません。
 人間は細かい差にこだわる無明な生き物です。

 しかし、斉物論編27節のあのあまりに有名な「胡蝶の夢」はあまりに美しい散文詩です。何が本質で何が反映だ、だとか馬鹿げた解釈に思い掠めるも汚らわしいです。
 私は、荘周(荘子)のごとく、夢で胡蝶でありたいし、胡蝶の夢でありたい。そう自然に思えます。

 それが根本的に無理であると思い知らされながらも。

 思想書と言うよりも、散文詩集を読む感覚でした。

 

荘子 内篇 (中公文庫)

荘子 内篇 (中公文庫)

※岩波他、読みやすい訳はいろいろあるようです。中公は古い方ですね。

(随想)何故私は読書日記を付けているのだろう?

 お久しぶりに随想を書きます。

 読書日記を何故私は付けはじめたのだろう?
 付けはじめたときは、あまりその理由が自分では分かっていなかった。何となくが事実である。
 だが、事実の裏には常に事実があり、不意に駒田信二氏の「論語 聖人の虚像と実像」(岩波同時代ライブラリー)を読んでいたときに思い出した。

 それは恩師の忠告によるものだった。

 私の恩師、坂元忠芳先生は東京都立大学の名誉教授で教育学者である。

 先生には専攻が違うにもかかわらずゼミに押しかけ、多大な迷惑をかけ、その上生意気な口も大分利き、教育学専攻の方々にも同時に多大な迷惑をかけ、その当時のことを思い出すと穴があったら入りたいものである。

 さて、私は先生に趣味は読書であり、教養主義者であり、生活人であるよりは確固とした趣味人として生を全うしたい(!)旨を告げ、それを誇りにさえしていた。はっきり言って馬鹿である。もう少し穏当な言葉で言ったつもりだが、要するに「知的ニート願望」である。

 すると、先生は、それではいけない、とはっきり仰い、せっかくたくさん本を読むなら、読書ノート位は付けなさい、若いときの私はそれをしておけばより多くの心の糧を得、学問上の発見をすることもできた思いがある、旨を仰られた。

 私は、面倒くさがり屋で、教養を蕩尽することにゆがんだ美学を感じていたので(デカダンスと言うやつですよ、ああ、恥ずかしい)極めてまとも且つ有益な意見に恐怖した。その当時の今よりも相当に愚かな私ですら真っ当に感じたが故に「怖い」意見だったのだ。

 時は移り、ブログなどが気楽に作れる時代になった。私はいくつかの職業を転々とし、病も得、おもしろくないこともおもしろいことも様々体験しながら身過ぎ世過ぎしてきた。
 その間に母校の東京都立大学はなんと「滅亡」してしまった。

 時を経て、私は、もう教養や知識や文筆が自分にとって、生きる上で「真剣」なものではなくなっていることに気がついた。生きていく上であると楽しくも危険なものではあり続けたが。

 病を得たあとの一肉体労働者になった自分には、読書日記が「怖い」ものではなくなった。めんどくさいなら書かなければいいのだ。書きたいことだけ書けばいいのだから。

 私は、この日記のベースに「ほわっ」とした感じの暖色のデザインが優しいはてなブログを選んだ。操作も楽だった。amazonとかが簡単に引用できるのもよかった。

 つまり、私は恩師の学問と人生上の真剣な忠告を、自らが失業、病、人間関係と、痛い目にさんざんあった後にようやく思い出し、ようやく身に至ったのだ。自分の知的営為は単に蕩尽するものではありませんよ、と。

 私は中年になって、恩師の言葉がある意味、身に至った。
 だが、まだ到底、至り足りていない。もっと厳しいこともいろいろ言われたのだ。先生のお言葉は優しかったが。

 私にとって、このブログは青春時代の微かな償いのようなものである。
 でも、蕩尽するだけの読書もやっぱり楽しいんですよ。ほら、やっぱり懲りていない(笑



 先生のご著書です。浅学な私にははっきり言って難解でしたが、三読し、感動しました。もちろん、先生が学生たちに熱意を込めて伝えようとしていた端々の言葉が理解に暗い私の心を感情で動かすからでしょうけれども。
 サイン本は私の宝です。行き詰まりを感じると、時々手が伸びます。

情動と感情の教育学

情動と感情の教育学


 

びんぼう自慢

 古今亭志ん生師匠の落語を聞いて、読みたくなって買いました。
 ちくま文庫
 筑摩書房って、何げに落語関係に力入れてますね。古書の検索とかでよく名前が出てきます。

 落語は私は素人です。笑点をみて笑ったり、その程度です。寄席に行って、高座を直接みたことはありません。

 しかし、妻が何げに落語好きで、私が昨今体調不良で気がふさいできたときに、落語のCDを借りてきました。別に嫌いでもないので、聞いていたら、何とまあ、おもしろいと言うか。「あったかいお茶」みたいな笑いですね。ちまたの芸人は無理に笑わせようとするのですが、落語というのは心を柔らかくして、無理なく笑わせてくれる感じです。

 とりわけ、志ん生師匠の音源をいくつか聞いたら、これがおもしろい。こんなおもしろいしゃべりがあっていいのか、と思う位おもしろい。動きの激しい笑いのようで、実は、外連にも毒にも頼っていない。真正面の「おもしろさ」。とにかく、話しの内容と表現の仕方だけのおもしろさ。しかし、話自体は、ボッとしたものではなく、人間の業や至らなさを真正面からつくもの。ううん、落語恐るべし、と鈍い頭で寝床で「寝床」を聞きながら、amazon志ん生師匠の自伝などを何冊か頼んだうちの一つ。

 「なめくじ艦隊」と「びんぼう自慢」をよみましたが、ともにちくま文庫です。
 ともに聞き取りです。
 「なめくじ艦隊」はお弟子の師匠がものしたもので、「びんぼう自慢」は落語研究の大家
でもある小島貞二氏の「代筆」で記されました。相互に内容はよく似ていますが細かい相違があります。

 さて、志ん生師匠は旗本の家に生まれましたが、放蕩児として家を飛び出し、落語家を志しますが芽が出ません。名前も十数回変え、夜逃げもし、家賃がタダでいいよと言われた業平(東京都墨田区押上)の長屋に越しますが、「タダよりなんとやら」で、湿気いっぱいのなめくじ屋敷だった顛末が落語ファンには膾炙しています。私は素人だったので読んで唖然、そして、「ふはっ」、としたいい笑いが出ました。なめくじが「歌う」と言う珍談も披露されています。(本当か?)

 新内節岡本文弥さんが「なめくじと志ん生」という新内を新作したものが、本書には収録されています。これが、師匠が「ほろりとして妻と聞いた」と言っていますが、しんみり来るいい内容です。長屋でなじみだったなめくじたちが、立身した師匠を訪ねてきて、様子を眺めて、そっと帰って行くと言う筋です。

 師匠は貧困を「味わうもの」と言いました。これは、恐ろしくも深い悟りだなあ、と感じ入りました。

 落語集も注文しました。音源でしか追えないのが残念ですが、ほかの師匠連のおもしろい落語も楽しみにしつつ、志ん生師匠の落語をじっくり聞くのを趣味にしようと思いました。それで、何だか生きることの「無意味さ」のかなりの部分が「よい味わいの意味の無さ」に変わりそうです。

びんぼう自慢 (ちくま文庫)

びんぼう自慢 (ちくま文庫)

 「なめくじ艦隊」はイラストだけでも見る価値があります(笑)
 なめくじなのに、何だか憎めない愛らしさ。

なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)

なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)


 長女の美濃部美津子さんの著書です。
 あたたかでわかりやすいいい本でした。

三人噺 志ん生・馬生・志ん朝 (文春文庫)

三人噺 志ん生・馬生・志ん朝 (文春文庫)

 

貨幣の思想史 (補論)

 先日の「貨幣の思想史」への論が、やや私的思いに重く、言うべき事をいくつか落とした感じがしましたので、後書き部分についてのみ、補います。

 結論的に言えば、著者は、貨幣の思想史について、貨幣がどのような存在に置き換わってゆくかの評価を故意に落としています。つまり、「予見可能性でない」ものを書きたかったのだ、と著書の末尾で言うのです。
 しかし、これはやや眉を顰めるべき態度といえましょう。「思想史」なのだから、起きていない事は書けない。なるほどここまではもっともです。しかし、筆者前記のように、貨幣の全般的な不換化以降の「思想史」は叙述されておりません。結果的に言えばこの本は、ケインズにまでは触れていても、経済史上起きた、貨幣の『無価値化』(強制管理化=人工価値化)以降の精神史における貨幣愛の問題には肉薄しておらず、著者の言う「関係の創造とともに変容する」社会の構築の展望にどれだけ資しているかは、疑わしいのです。
 
 例出すれば、あとがき部分での著者の自己体験の問題を引けばいい案配に収まる感じがします。
 著者は田舎に家を買います。貸してくれる人はいくらでもいるのに、著者は動機を特に明示せず、とにかく「買いたい」のです。そして、ようやく売りたい人を見つけますが、値段が付かないのです。村で不動産を売り買いした現実がまだ存在しておらず、初めて値段が付くのです。司法書士なども呼ばれて登記のために家屋敷その他内訳を聞かれますが、答えられません。内訳を決めずに売買したからですが、著者はここに少しこだわって見せて、「有用性を貨幣で代替する虚しさ(=虚構性)」が市場のないところでははっきりする、などと言いますが、これはやはり、素人目にも牧歌的すぎます。ここは、著者が13人の中には挙げなかったルソーのあの言葉を思い出すべきです。「最初に杭を打ったやつが所有を作った。その杭は投げ捨てるべきだった。」(「人間不平等起源論」より翻案筆者)
 著者は、ルソーの伝で言えば、「市場をはじめて作った」だけではないかという疑念がまず一つ。そして、今ひとつは、筆者が明示しなかった「家が田舎でほしい動機」にあるのではないかと思います。
 著者が使用価値と交換価値の矛盾を自己体験に投影して語りたいのは分かります。高踏的な田園願望がその矛盾の解決と、より人間的な経済のあり方を求めている意思表明を「修飾・強化」しているのも著者の意思通りでしょう。
 しかし、それははたして、単に田舎に「椅子」=逃げ場所がほしい都会哲学者のわがまま(田舎の貨幣による市場化)が「貨幣愛の動機にもなる」自己の行動の自由に展開できる場所の確保(空間の所有権化)に他ならないのではないかとも思うのです。
 結局、金のある人が、金のない人から「田舎の椅子一つの場所」すらも危うくできる。貨幣愛の憂鬱さの影はたまたま善意の哲学者だから、売った人にお茶を飲む場所椅子一つを口約束で許しましたが、彼の相続人、彼の差押え債権者、彼の抵当権者(家を改修するのに銀行から金を借りたとすれば間違いなくつきます)競売されたとすれば競落人、競落人は著者の口約束には当然善意です。拘束されません。そして、競落人が例えばゴルフ場開発業者に売り渡せば…。
 やはり著者のした行為は厳密な意味でルソー的な「所有の持ち込み」でかつ、貨幣愛の動機の一端すらもはしなく表しています。
 著者はまえがきで自己も貨幣愛をもつ存在として憂鬱と言っています。この告白は誠実です。誠実である理由は、私にはあとがきで分かったと思います。しかし、その記述の仕方は、いささか誠実ではなく、むしろ弱さを表している観がありました。
 貨幣愛の深刻さについて、私は自己省察も含めて、著者の本著に極めてよく、皮肉でなく啓発されました。自然主義すら、それのみではテンで貨幣愛渦巻く現実経済には太刀打ちできないわけです。
 私は貨幣愛に否定的ですが、「克服」なんてとてもできませんし、その展望も全く糸口がありません。
 皆さんは、自分の貨幣愛を当然と認め、それを自らなりにどう評価されますか。この本は、それを考えさせてくれます。

貨幣の思想史

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。
 ここは廃屋ではありませんので(爆

 いろいろ読んでいたのですが、自分の中で熟するモノがないというか、おもしろく、追い求めたくなる読後感のある哲学書のたぐい(スピノザヴィトゲンシュタインの入門書2冊)を紹介しようかとも考えたのですが、自分の中で理解できている部分がまだまだあまりに少なすぎる事を感じ、あえて筆は取らずにおこうかな、と思っていたところ、当たり前だ、と気がつきました。

 俺、ヴィトゲンシュタインスピノザも原書は愚か(←読めすか!)翻訳も読んでいない・・・。

 「論語読まずの論語知らず」なんて当たり前ですね。

 さて、そこで、ずーっとぼつぼつ1年くらい読んでは止め、止めては読み、また最初から読み、とうとう最後まで読んだ「貨幣の思想史」を紹介します。
 著者は哲学者、内山節さんです。本の体裁は新潮選書。
 
 論語読まずの、ではないですが、ペティー、ケネー、ロック、アダム・スミスリカードゥ、ミル、マルサス、バウェルク、モーゼス・ヘス、W・ヴァイトリング、M・シュティルナーマルクスケインズと総勢13人の経済思想家に焦点を当て、プロローグ、エピローグ併せて14章立てで貨幣が近代資本主義確立の中でいかなる位置を占めて、我々の思想の中軸に座ってゆくかを丁寧にわかりやすく説明してゆきます。

 しかし、まず二つ。
 これだけの著者について、啓蒙書レベルの読者がどれだけ通じてるかで言えば、私は正直に言えば、バウェルク、モーゼス・ヘスは全く聞き覚えが無く、ヴァイトリングとシュティルナーは名前だけ聞いたことはあるような気がするだけでした。残りは辛うじて、一応著書に触れ事があったり、概略みたいなモノには見聞きの覚えがありましたが。間口広く、様々な著者が論じられている本というのは、まじめに正誤を含めて批判しようとすると骨は折れそうです。
 そして、わかりやすいのですが、全体の説明は非常にもの悲しく、読んでいて、肩の荷が下りる、気持ちのほぐれる感覚は全くない本です。それは「貨幣愛」という重苦しい課題を論じているから、やはり避けがたいのでしょうか・・・。

 この本の通底と言うか陰にはやはりマルクスの存在感が大きく見え隠れします。結局のところ、マルクスが労働価値説を近代化して剰余価値学説を生み出したことについては著者は総じてきわめて冷淡で(別に批判的ではない)、マルクスの貨幣に対する態度の冷淡さを逆に未来社会の中で段階的に他の可換な方法(労働証券など)を探りながら置き換えてゆく考えに見据えながらマルクスの「息苦しい」社会観の原因を浮き彫りにしてゆきます。

 マルクスは結局、抽象的人間労働タームで労働価値分析の平準化を図ってその後の話を進めたのですが、著者はこれを「解決にはならなかったようだ」といいます。労働価値はあまりに分かちがたく人格と結びついていて、結局時間だろうが、成果だろうが何で計ろうが経済の目は必ず取りこぼすのです。ケインズにいたって抽象的人間Pと成り果て、ようやく経済的人間像というモノの実態が明らかにされる訳です。そしてケインズは自らの分析した資本主義的人間像の貨幣愛を「望ましくない」と断じて「経済学者」と「経済思想家」は分断される事実を主著「一般理論」ではしなくも明らかにするのです。

 同じくマルクスは、未来社会の解決のために、その時代の課題を生き抜く労働者像を提案します(著者は「ゴーダ綱領批判」を引いていますので、私はここにエンゲルスの影響をどうしても感じてしまいますが、その点は二人は同意見だったと思われます)が、著者によればこれは同時代の労働者には不評だったようです。「生きている間の自由は、無いのね」感が原因だとのこと。

 この指摘に感じる所があり、私はこの本の書評を書こうと率直に言って思ったのです。自分が左翼かぶれ若造(今は左翼かぶれプチ親父)だった頃、「未来の部品みたいな俺」をどうしてこの偉そうな親父たちは俺に押しつけるのかとマルクス・エンゲルスに反感を持った覚えがはっきりあったからです。そしてその感覚は未だに精算されていないのですから。その点では自分が「××的社会主義」とかと言うものにもつ漠たる反感の原因が自分なりに浮き彫りになり、「よい未来を目指していることがよいこと」が、ア・プリオリに正しいという命題の崩壊をきっちり自覚できただけでこの本を読んだ甲斐はあったのです。そして、何故個人的に読後感が物憂いのかも分かるのです。

 しかし、この本は貨幣の思想史と銘打ちながら、貨幣愛の進展を古典経済までは時代時代の古典経済理論と裏打ちする手法を取りながら、ケインズの部分になって、いささか曖昧になります。特に、商品貨幣である貨幣が、国家強制通用の不換紙幣(不換銀行券)に変わっても、尚、いや、よりいっそう強く貨幣愛を人々の精神に植え付けていることをもう少し丁寧に解明して結びつけなければ、「貨幣愛」の「内容の無さ」と「あまりの強さ」の関係は分からないのでは、と言う疑問も抱きました。著者の博識の限界でしょう。大体、如何に博識な部類の学者とはいえ、正直13人についてそれなりにきちんと通じて書く著者には舌を巻きました故、これで近代経済でも同じ芸をされたらある意味恐ろしいです。

 自己語りも交えましたが、10年前に書かれた本の再販にしては、古びていない、いい本でした。貨幣を愛する感覚がありながらそれを否定できる感覚をあえて哲学しようとする著者の人柄そのものに私は思想の内容以前に親近感をおぼえます。

貨幣の思想史―お金について考えた人びと (新潮選書)

貨幣の思想史―お金について考えた人びと (新潮選書)


 

犯罪学入門

 もう来ました。寒い、寒い冬が。
 イヤ、季刊更新と化していますな(遠い目

 犯罪学入門、講談社現代新書でございます。
 著者は鮎川潤先生。私、初見の著者です。刑事政策の先生ですね。

 内容は、丁寧というか、手堅いです。
 実例重視で、新奇を追わず、典型例で興味深いものを厚く説明する感があります。
 最初の例で、あの連続殺人元消防士「K(K田)」の生い立ち、初犯から逮捕までを例出して、時代背景まで含めてこの犯罪が何故出現し、凶悪犯罪を未然に防ぐヒントはどこから得られるのかを浮き彫りにしてゆきます。

 この本には、時事的な平版さを排する、哲学があります。軸になっているのは社会防衛と加害者人権の調和なのですが、被害者人権を重視する近来の犯罪事情をいたずらに「加害者対被害者人権」の図式にしないようにぎりぎりまで悩んでみせるだけの知的な余裕というか啓蒙書にありがちな一般的解説では終わらせたくないという「願い」がある感じがします。この本が鮎川先生の教えている学生さんむけの「教材」起源なのだとしたらしっくりくる感じがします。
 つまり、犯罪学に対して本当の啓蒙、「蒙を啓きたい」「気持ち」が伝わってきます。

 犯罪者の更正を視座にいれることが何故大切なのか。それは単に「社会防衛」のためなのか、薬物事犯を非犯罪化する「結果無価値」的な刑法学説から生まれる考えは何故現実社会で通底しきってゆかないのか、また、同じく反規範性を処罰において重視してゆく考えが処罰感情の現実には通底していっても、社会政策としてはリアリティーに乏しいのか・・・。

 考えさせてくれる本が良著なのだとすれば、この本は興味深い啓蒙的知識をかいつまんで与えてくれ、かつ考えさせてくれる実によい本だと言えるでしょう。

 

犯罪学入門 (講談社現代新書)

犯罪学入門 (講談社現代新書)