貨幣の思想史 (補論)

 先日の「貨幣の思想史」への論が、やや私的思いに重く、言うべき事をいくつか落とした感じがしましたので、後書き部分についてのみ、補います。

 結論的に言えば、著者は、貨幣の思想史について、貨幣がどのような存在に置き換わってゆくかの評価を故意に落としています。つまり、「予見可能性でない」ものを書きたかったのだ、と著書の末尾で言うのです。
 しかし、これはやや眉を顰めるべき態度といえましょう。「思想史」なのだから、起きていない事は書けない。なるほどここまではもっともです。しかし、筆者前記のように、貨幣の全般的な不換化以降の「思想史」は叙述されておりません。結果的に言えばこの本は、ケインズにまでは触れていても、経済史上起きた、貨幣の『無価値化』(強制管理化=人工価値化)以降の精神史における貨幣愛の問題には肉薄しておらず、著者の言う「関係の創造とともに変容する」社会の構築の展望にどれだけ資しているかは、疑わしいのです。
 
 例出すれば、あとがき部分での著者の自己体験の問題を引けばいい案配に収まる感じがします。
 著者は田舎に家を買います。貸してくれる人はいくらでもいるのに、著者は動機を特に明示せず、とにかく「買いたい」のです。そして、ようやく売りたい人を見つけますが、値段が付かないのです。村で不動産を売り買いした現実がまだ存在しておらず、初めて値段が付くのです。司法書士なども呼ばれて登記のために家屋敷その他内訳を聞かれますが、答えられません。内訳を決めずに売買したからですが、著者はここに少しこだわって見せて、「有用性を貨幣で代替する虚しさ(=虚構性)」が市場のないところでははっきりする、などと言いますが、これはやはり、素人目にも牧歌的すぎます。ここは、著者が13人の中には挙げなかったルソーのあの言葉を思い出すべきです。「最初に杭を打ったやつが所有を作った。その杭は投げ捨てるべきだった。」(「人間不平等起源論」より翻案筆者)
 著者は、ルソーの伝で言えば、「市場をはじめて作った」だけではないかという疑念がまず一つ。そして、今ひとつは、筆者が明示しなかった「家が田舎でほしい動機」にあるのではないかと思います。
 著者が使用価値と交換価値の矛盾を自己体験に投影して語りたいのは分かります。高踏的な田園願望がその矛盾の解決と、より人間的な経済のあり方を求めている意思表明を「修飾・強化」しているのも著者の意思通りでしょう。
 しかし、それははたして、単に田舎に「椅子」=逃げ場所がほしい都会哲学者のわがまま(田舎の貨幣による市場化)が「貨幣愛の動機にもなる」自己の行動の自由に展開できる場所の確保(空間の所有権化)に他ならないのではないかとも思うのです。
 結局、金のある人が、金のない人から「田舎の椅子一つの場所」すらも危うくできる。貨幣愛の憂鬱さの影はたまたま善意の哲学者だから、売った人にお茶を飲む場所椅子一つを口約束で許しましたが、彼の相続人、彼の差押え債権者、彼の抵当権者(家を改修するのに銀行から金を借りたとすれば間違いなくつきます)競売されたとすれば競落人、競落人は著者の口約束には当然善意です。拘束されません。そして、競落人が例えばゴルフ場開発業者に売り渡せば…。
 やはり著者のした行為は厳密な意味でルソー的な「所有の持ち込み」でかつ、貨幣愛の動機の一端すらもはしなく表しています。
 著者はまえがきで自己も貨幣愛をもつ存在として憂鬱と言っています。この告白は誠実です。誠実である理由は、私にはあとがきで分かったと思います。しかし、その記述の仕方は、いささか誠実ではなく、むしろ弱さを表している観がありました。
 貨幣愛の深刻さについて、私は自己省察も含めて、著者の本著に極めてよく、皮肉でなく啓発されました。自然主義すら、それのみではテンで貨幣愛渦巻く現実経済には太刀打ちできないわけです。
 私は貨幣愛に否定的ですが、「克服」なんてとてもできませんし、その展望も全く糸口がありません。
 皆さんは、自分の貨幣愛を当然と認め、それを自らなりにどう評価されますか。この本は、それを考えさせてくれます。