お久しぶりです

 読書について、今後は「東京裁判研究」を少しづつしてゆく予定ですので、その内容を載せてゆきます。
 以下は投稿済みのFacebookの記事を補正して転載。

 僕の20歳のころからの政治的屈託や悩みをある程度解決するために何が必要かずっと考えてきたが、本格的な東京裁判研究にあたらざるをえないという中間的な結論に達した。付帯してニュルンベルク裁判についてもある適度深く学ばねばならない。
 これまた付帯して、旧軍高級軍人の思想・現状認識についてある程度体系的に抑える必要もある。
 何で自分がそういうことを知りたいのか、30台後半まで実はあまり気が付かなかった。知らないまま、旧軍軍人の伝記や思想について当人らの言葉が書いてあるものを目につくと読んでみた。今村均武藤章、米内光政、そういう連中が物量的には絶対に勝つ見込みのない戦にどのように臨んだのか、それは興味深い過程だった。
 しかし、そのためには基本言語として東京裁判資料を検討するために英語も必要だし、付帯してドイツ語もある程度必要だ。どえらい労苦と作業だ。
そもそも、東京裁判公判録自体が日本語はおろか英語でも全文の公刊はない。全部読もうと思うと、米国の国立公文書館か何かまでアクセスせねばならない。日本の国立国会図書館にも部分的な謄写はある程度体系的にはあるようだ。関西大学の図書館にも弁護側資料を中心に相当あるようだ。
 まずは判決文から検討するしかないのだが、まあ、これは始めるか。できれば起訴状も欲しいなあ。木戸日記とか原田日記とかもよまなきゃならないんだよなあ。
既存の目にする、耳にする限り、僕として落ち着きどころにはならないのだ。
自分の極めて不完全な意見としては、レーリンク判事の意見に惹かれるのだが、無制限に受け入れる訳にはいかない点も違和感として存在している。パール判事の意見には、はっきりと政治的リアリズムの忘却を感じる。だがこれも感覚的なものだ。
 では、判決そのものには?訴訟過程については?
 この問題について、是とするにしても否とするにしても、自分である程度しっかりと考え、確定情報を踏まえた判断になっていないことを痛感したのだ。
東京裁判極東国際軍事裁判)はサンフランシスコ平和条約第11条において日本政府はニュアンスの違いがあれ、その一切を受け入れている。つまり、判決の法的是非については、その瑕疵の一切は存否に関わらず国家主権の名の下に受け入れで確定している。結果の当不等については論ずる余地は実はない。この余地を認めれば全くの歴史修正主義になると思う。
 では、裁判の過程についての政治的、法的評価については?
 これこそ、対米従属を宿命化し、無謀な戦争に日本国民ほぼ全体が結果として突入した、これを「巻き込まれた」とか「一部の人間が先導して国民は騙された」というのは、これは情緒的にすぎるし、現実離れしているのだが、結果として「そうなった」過程の「神秘」は東京裁判の内容に現れている可能性が高い。
繰り返しになるが二次資料や意見の群れからは、この問題の僕の内的結論は出ない。なにかいい体系的な研究に複数当たれば解決する気もするのだが、僕は無知なので、それにはたどり着いていない。日本語の情報の中にもそういうものがいくばくかあるはずだ。それを探しだしてゆかねばならないし、その中で文献情報にも辿り着くだろう。
こういう東京裁判への疑問自体を歴史修正主義と呼ぶのは僕は完全な誤りだと思う。