法哲学入門

 いや、夏が過ぎ去りました。あつい暑い夏が。(もう言い訳もしない)

 講談社学術文庫です。
 著者はケルゼン研究の専門家、長尾先生です。

 法哲学というのは、法律を「実用知識」として関わっている人間はあまり近づきません。もちろん煩瑣であり、余裕がないのは事実ですが、おそらくはそれ以上に、法律は常識的な知識であってほしいし、安定してほしいので、「法を外側から(つまり哲学的に)とらえる」見方を無意識的に拒絶しているのだと思います。

 長尾先生は本著で、哲学は非常識の極み、法は常識の極み、その間に生まれる『法を哲学する』法哲学とは如何に?と言うことを優しく説いてゆきます。

 この本はユーモアに富んでいます。雑誌『法学セミナー』の初学者向けの連載だったから味気ない筆致ではいけないというサービス精神もおそらくあるのでしょうが、思わずクスリとくる記述が随所にあります。

 内容の展開は法哲学の主要な命題『自然法は存在するか』を中心に、様々な記述を展開します。
 そして人がなぜ自然法思想を打ち立てるのか(あこがれるのか)を東洋の老荘思想にも依りながら解明しようとします。

 記述は平易ですが、内容は深いです。つまりある意味やっかいなタイプの本で、流せてしまうのですが、きちんと理解するのには勉強が必要なタイプの本です。

 この本を読んで、自分なりにわかったのは、法哲学というのは人間行動学の法的な現れと、倫理的学の臨界にあるのだな、と言うことです。この試みが敬して遠ざけられる理由も何となしに感じます。法をよく理解するために法の勉強に没頭し、「法的」になってゆくことが法律の勉強にはさけられないようです。それは苦痛な勉強をいやすための目的と同一化してのナルシシズムでもあります。しかし、
 法哲学はあくまで法を外側から、哲学的に人間行動の法的側面を見るわけです。短期的な実用性が乏しい性もあり、まるでこの「法学に内在された法学の敵」みたいな法哲学は分け入ってゆくには、法が好きであるほど、多くのカベがある学問なのだと。  

 しかし、実定法がなぜ生まれたか、正義とは何かを考えさせてくれる法哲学の営みは、実定法を運用する人々にこそたくさん備わってほしいとこの本を読んで、さらに思うところであります。

 

法哲学入門 (講談社学術文庫)

法哲学入門 (講談社学術文庫)

追記(2008年7月3日)
 「法学に遊ぶ」この本もすごく面白かったです。でも自分の学生時代にはもう出ていました。学生時代に、法学には「権力の端女」と言う実に偏った評価を私は下していました。しかし、そういう側面は直視しつつ、社会がなぜ法を求めるかも私は直視すべきでした。正義感は割りと誰でももてますが、正義の実現とは実に困難な課題なのですから。
 
 

法学に遊ぶ―落語から法哲学へ

法学に遊ぶ―落語から法哲学へ

 


 

東のエデン

 大変お久しぶりの更新です。失礼いたしました。
 
 本は読んではいるのですが、どうも心は庭弄りに向かっており、うららかな中にも、茫漠たる時が流れています。
 簡単にいうと、脳みそつるつるです。何を読んでも上滑りする反面、葛藤や問題意識も浅く、「不幸になりにくい」状態を感じます。

 さて、そんな中ですから、軽く入るものと言えば漫画ですが、その中でも私のお気に入りは杉浦日向子さんのものです。
 一番最近手にしたのは、「東のエデン」ですのでこれを紹介します。

 この作品は、江戸人を明治に放り出して泳がせてみるのが有体に言えばひとつの骨です。
 杉浦さんは自らを「江戸人」であるとし、他の作品でも、この作品でも非常に直接さと婉曲さの入り混じった否定的な文明批評を現代に投げかけます。「自由な個人」などと言うものは実は現代に得られたものではなく、江戸時代が終わるとともに滅びたのだ、と言わんばかりです。

 彼女の描写する江戸時代は人物も事物も生き生きしており、せりふもよく、余人の真似のしがたい世界です。絵も不思議なタッチですが、よく読みこむと感動的なまでに巧い絵なのです。

 明治を迎え、身分を尾を引きずりながらも新時代の知識を身につけようともがきつつ、青春を謳歌するさわやかな作品です。 

 この作品では「とのさん」(公卿の若様が英文学生になって勉強しているキャラ)が際立って光っています。寸鉄を身にまとわず、自然体で難をかわし、貧困でも品位を失わない「すべ」をわきまえ、世間知らずのようで世知を知り尽くしているキャラ。彼女は公家を描く作品よりも江戸文化や江戸の町人や武士を巧みに描くイメージでしたが、公家と言う存在を生き生きと描くのは意外でした。
 
 この作品に対して、幕末の最後の最後を描く、彰義隊をテーマにした「合葬」は暗い作品です。これが杉浦日向子の作品か、とすら思いました。絵は凄みがあり、巧い。しかし、何の救いもないひとつの時代の終わり。同じ青春群像でも、ここまで明暗を描き分けるかと思うと、彼女の「江戸時代」が明治と言うかたちで終わったことに対するルサンチマンすら感じます。

 私は彼女の作品で読んだものでははずれと思ったものはひとつとしてありません。エキセントリックすぎるものもありますが、ドラマツルギーもしっかりしており、人物描写も的確で背景になっている哲学も骨太いです。

 彼女が故人であることが、私には残念でなりません。

合葬 (ちくま文庫)

合葬 (ちくま文庫)

 私はこれらのほかに「百物語」や北斎を廻る人物像と風俗を描いた「百日紅」が好きです。

つっこみ力

 「反社会学講座」で「常識」を滅多切りにして笑い飛ばしたパオロ・マッツァリーノ氏の怪作またも登場。(べたな紹介)

 おもしろいです。反社会学講座よりもボルテージが上がった感があります。二番煎じ?いえいえ、そんなことはありません。本書は抽象的で思弁的な「反社会学」と言う命題を超えて「つっこみ力」なる概念を定義し、「つっこみ」と言う方法論で「批判」「論理」「メディアリテラシー(!)」などを超えると称しているのが痛快です。
 ちなみにギャグ6割まじめ4割で存外まじめで有用です。おもしろさの方が有用性を上回っていますが。

 出色なのは、おぼれている人間を発見したライフセイバーが海の家で寄り合いをはじめて効率的かつ公平な水難救助のあり方を議論し始めたら誰でも怒るだろう、と言う旨の超強烈な皮肉です。著者は貧困格差の問題を原因追及よりも結果でやるべきだと主張しているのです。
 格差の問題は所得の問題より資産の問題の方がよほど深刻だというのもはて、と我に返れば誠にもっともです。盲点は実は見えている、と言うべきか。

 この本には新聞の学者の書評はパワーダウンした、反社会学講座の繰り返しなどとやや難癖をつけていますが、巻末の引用文献リストを見ればいかに著者が「まじめ」にこの本を書いたかが分かります。いくつか当たってみたい本も発見できてうれしいです。

 学問の権威主義の問題について巻頭で決定的な断を下していて痛快です。

 読んでみてください。お笑い本としてだけで十分元が取れますが、それ以上の付加価値が大変大きい本です。ただ、「おもしろすぎる」のでお笑い部分の価値がやや多めと思いました。
 反社会学講座と併せて読むとおすすめです

つっこみ力 (ちくま新書 645)

つっこみ力 (ちくま新書 645)

反社会学講座

反社会学講座

著者のサイト「スタンダード 反社会学講座
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/

 この人何者なんだろう…。

イワンのばか

 何故かトルストイのこの子ども向け(と言うより彼の頭の中では民衆「啓蒙」用)民話を読みふけってしまった。
 私は高校生の頃から愛読しているのですが、大学生の頃に、「光ある内に光の中を歩め」特に強く影響を受けました。キリスト教の信仰を受け入れようか真剣に悩んだくらいです。でも、俗物かつ唯物論的であった私には(べつに「唯物論者が俗物」という意味ではなく、私が「俗物で」かつ「唯物論『的』」と言いたいだけです。)『徴無き』絶対の神を「信じる」には至りませんでした。
 ただ、神を人間が求める「気持ち」には大学来興味が尽きることはありません。別に揶揄的なものではなく、その「深刻さ」についても。
 さて、トルストイはクロイツエル・ソナタや悪魔などで人間の官能についてもその暗黒面も含めて積極的に色彩豊かかつドラマティックに描く作家で、しかし、総括としては性的な煩悶を罪と捉えて強く『乱倫の末路』を断罪します。
 民話集においてはそう言う眉をひそめるような『暗さ』はなく、おおらかな大ロシア人の愚行とおとぼけを軸にしながら、トルストイ一流の無政府主義的な平等主義を展開するという一種の「説教本」です。

 中でもイワンの馬鹿は一番の傑作です。子どもにも一番親しまれていると思います。
 理由は?
 とにかく「イワンが馬鹿」だからとしか言いようがありません。
 イワンの馬鹿さはとにかく「物に拘らない」「自分が知り覚えた労働だけに拘る」「人を無限に許す」と言う普通の人間には絶対にない(特に日本人には見いだしがたい)滑稽なまでの他人への無関心があります。ロシア人が本当にこういう「おおらかな」人間性を基底としているかは一考の余地がありますが、トルストイが自らも属した貴族階層の「おおらかでない」部分にこそ非常に厳しい罪悪感と断罪の意思を持ったことから見てもロシア人のあり方の理想としてイワンの馬鹿さ加減は非常に訴求力のあるものであった事は確かでしょう。

 イワンは馬鹿でありながら、労働と無垢の力で悪魔に打ち勝ち、奇跡を呼び、王となり、幾多の『困難』をするりとすり抜け、ついには悪魔の親分すら打ち倒して「手にこぶのない物は残り物を食べる」「馬鹿しか居ない」理想の王国をつくります。つまり、これがトルストイにとっての理想の王国でもあるのでしょう。

 トルストイが否定した貴族主義の教養的装いや知識人の小知恵、そして資本主義的な「狡知」は未だに馬鹿の上に君臨しています。その勢いは大いに盛んで、馬鹿でいれば収奪されるだけです。残念ながらそれが現実でしょう。
 「馬鹿」でありながら、奇跡や理想の王国に頼らず「馬鹿の楽園」を馬鹿自身の力で作り上げる日々を人類は迎えることができるのでしょうか。
 
 トルストイの倫理主義的糾弾は以下にも古くさいですが、心に不思議な訴求力を持つのはやはり、ある種の人間が「馬鹿の楽園=イワン王国」を求めている証左なのでありましょうか。


トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇 (岩波文庫)

トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇 (岩波文庫)

 1932年原版第1版の岩波文庫版ですが親しみやすい名訳だと思います。
 中村白葉先生は罪と罰などの大著も含めてたくさん訳業のある大家です。

トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)

トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)

 別の民話集。トルストイ初の民話である「人はなんで生きるか」か含まれています。よくできた面白い話で個人的には気に入っています。倫理臭が強すぎる感もありますが。

クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)

クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)

 クロイツェル・ソナタと悪魔を収録。トルストイの性的な煩悶と罪悪感の強さをよく物語っている作品です。好き嫌いは激しいと思いますが、私は引き込まれました。

ごあいさつ:2007年の読書

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い申し上げます。

 2007年、私の読書の傾向は大きく法律書と歴史書に傾くと思われます。(実はマンガに傾く・・・それでいいのか!!)
 私は知りたい故に知りたい、「大脳新皮質の情動」としての教養主義に強要されて役に立たない読書の冥府魔道をそれでも行くつもりであります。
 なぜか。タダ知りたいから。自分が何を知りたいのかすら分らないこの脆弱な私が何かを知りたいから。

 2007年正月、アッカ呆然たるあやがねくりや35歳(年男)であった。

昭和憲兵史

 みすず書房。大谷敬二郎という旧軍の憲兵大佐の著書です。
 この人の文庫「憲兵」が面白かったので思いきって古本屋で買いました。絶版してるので仕方がないのですが、4000円くらいしたので財布にアイタタです。amazonをみると12000円もしているのでそりゃ高すぎだろうという感じです。
 まず約800ページ分厚さに驚きます。そして2段組。こんな本、ひまを見て読んでたらいつまでかかるのかと。実際2ヶ月くらいかかりましたが。
 憲兵の尋問調書や、左右の思想弾圧の記録などもあり、興味深い内容です。弾圧された側の主張と比較して読むと「はあなるほど」と分ることもあります。その意味でも興味深い内容でした。
 著者の執筆動機は憲兵の本務とは「監軍護国」即ち軍事警察を主にした非法をただす業務であって、政治警察は本務ではない、戦後につくられた虚妄と、一部陸軍首脳、特に東条内閣時に憲兵力の濫用が国民をして憲兵をそう思わせるに至った、全く残念だ、と言うことをエピソード混じりに繰り返し主張するわけです。
 主張そのものよりも、エピソードのほうが面白いです。ただ主張としては業務をしていた人の無念そのものはよく伝わります。
 著者の大谷氏は政治警察の定義を縮小しすぎていて、少し虫がよすぎる感もあります。一般国民の不作為による戦時非協力行為まで取り締まればまこう違う事なき政治警察と言えましょう。思想警察業務もしっかりしていた事と会わせて考えれば当然と言えます。
 「好ましいとは思わないが」「やや任務外の嫌いはあるが」などと言いながら、憲兵力を業務外に(即ち政治的な差配のもと)用いていたことも著者自身が告白しています。
 
 この本をぼんやりと読み続けて得た教訓は「やはり憲兵は強大で恐ろしい存在だった」と言うものでした。
 高度武装した軍事警察が同時に一般警察権まで持つというのは、大変なことなのだと言うことを痛感しました。

 著者はもう亡くなられています(1976年死去)。しかし、1987年まで私の持っている判は刷られております。値段の高さからいってもそれなりに人気がある本と思われます。
 2・26事件の描写が面白いのと、憲兵調書までついているのでお得?なのかもしれません。

昭和憲兵史

昭和憲兵史

 
 

アウシュヴィッツ収容所

 講談社学術文庫
 
 著者はルドルフ・ヘス。と、いっても副総統のヘス(HESS)ではなく、別人。(HOESSとつづる。オーウムラウトの出し方が分らないのでoeとしておきます。)

 著者はアウシュヴィッツ収容所の所長を務めたSS隊長団(将校)の一員です。まさに虐殺の当事者です。
 
 この本は気持ち悪い本です。所謂、「読んで糧になる良書」ではないです。何か批判を加えたりして得られることもまた乏しい感もあります。反面教師ですらあり得ないきもします。
 残酷描写があって気持ち悪い、民族差別表現があって気持ち悪いと言うのも当たらない感じがします。今の世の中、もっと残酷で、もっと差別的な表現や言辞が幾らでもまかり通っていますし。「表現」としては別に「穏当」な範疇です。
 
 しかし、この本の読後感は悪く、内容も要所要所で「圧倒的に気持ち悪い」のです。

 理由は幾らもあろうかと思うのですが、この本の「作者」ルドルフ・ヘスという男の責任転嫁というか、自分の行為に対する醒めッぷりとこの期に及んでの自分の命への拘りっぷりが実に気持ち悪いのです。
 この本の原稿は戦後ヘスがつかまって裁判を待つ間に書かれているのですが、自分の軍歴や逮捕・懲役経験、親衛隊での体験などを混ぜ合わせて「客観的に」状況を把握して、表現して行くのです。自分の行う行為に自分が痛みを感じていることも「当然」描写されますがなにやら薄っぺらです。ヘスはガスでユダヤ人を処刑する有様を必ず観察していたそうですが「誰も自分の仕事をかわりたがったものは居ない」などと言いながらなにやら自慢げですらあります。
 SS隊長のヒムラーは「誰にもできないことを成し遂げることこそ勇気だ」と民族と国家に尽くすことを鼓舞しているのですから、ヘスも「誰にもできないような」虐殺の管理者に戦後も心底で誇りを感じている名残があります。そう言う名残が見え見えなのに「自分が痛みを感じている」と語る偽善には行為の絶対量のすさまじさと相まって凄みがあります。
 
 ヘスは家族と自分のために違う道を選ぶべきだった、といいますが、これは読んでみてびっくりしたのですが、同情したり、悪いことをしたと言ってみたりするのですが、自分が「した」ことを「悪い」とは言わないのです。民族に尽くしたひとりの軍人であり、命令と義務を全うしただけとし、ヒムラーに責任転嫁するのです。
 
 「世界がそう要求するから」

 自分に待ち受ける運命をかれはそう表現します。

 私はこの言葉に身震いしました。

 自分が為したことの結果を解釈するのにこんなに便利な言葉はないだろうと思いました。と、同時に、自分を「無力」と決めて「責任」の外へ出ようとする人間は自分の行為の帰結を常にこう解釈するのではと感じました。投げやりな時、もう失うものがないと全てを投げ出した時、肯んぜない圧倒的な力に無理矢理従った時、「世界がそう要求するから」と行為し、行為させられるのではないでしょうか。

 「その男もまた心を持つ一人の人間だったこと、彼もまた、悪人ではなかったことを。」

 ヘスは自分をそう覚えておいてくれと訴えます。
 チクロンBが効いてくるのを窓越しに眺める「義務」を果たしていた自分はサディストや悪人ではないのだと。

 虫がいいです。でも、その虫の良さは彼だけのものでしょうか。「世界がそう要求するから」行為する人間は誰でも彼のような思考を「共有」している、私はそう感じました。

 彼は戦後、裁判にかけられ、アウシュヴィッツ収容所にて、処刑されました。
 「世界がそう要求したから」ですが、彼の遺言通り、妻と子供への言葉は公開されませんでした。今回の出版でもそれは守られています。

 彼は、「何故世界が自分にそれを要求したか」をもっと考えるべきなのでしょう。それを考えなければ行為と自分の因果関係を見失うのです。

 この本は読むべき良書ではあり得ませんでしたが、私の心を負の意味で動かした量が大きかったので敢えて感想を書きました。この本の印税は訳者に行くのであって処刑されたヘス氏やその遺族に行くのでないこともまた救いだと感じました。
 
 

アウシュヴィッツ収容所 (講談社学術文庫)

アウシュヴィッツ収容所 (講談社学術文庫)