はじめてのニーチェ

はじめてのニーチェ (1時間で読める超入門シリーズ)

はじめてのニーチェ (1時間で読める超入門シリーズ)

 久しぶりの読書ブログで、何を題材にするか迷ったが、適菜収氏のニーチェの思想と著作についての啓蒙的な本書とすることにした。

 本書は、「1時間で読める超入門シリーズ」とあったが、なるほど、布団の中で1時間程度で読めた。
 だが、本書は、氏の『アンチクリスト』訳書で前紹介した『キリスト教邪教です!』http://d.hatena.ne.jp/ayakuriya/20050725の読後感とは、少し違うある赤裸々を感じた。
 そして、私は本書の思想的勧めには到底乗れないという決断を本書だけで出すことができた。そういう意味では、コンパクトに言いたいことが言えているよくまとまった本で、あからさまに啓蒙的な入門書とバカにせずに一読する価値がある。 

 一つの問題はエリート主義、もうひとつの問題は、視点、パースペクティブの問題である。
 
 適菜氏は、ニーチェを大衆蔑視の人ではなく相応の幸福を大衆に保証しようとした人だという。なるほど、そういう「願望」をニーチェはもっていたかもしれない。だが、本書を読めば読むほど、ニーチェとはただ考えを語る人で、何かを現実化するためのプランを書き、それを実行し、成功したり失敗したりして、何かを得たり失ったりする人ではないのだとわかる。ニーチェは予言を垂れ流し、ある現実の一面を鋭く告発する力ある言説をするが、それ以上でもそれ以下でもない、そう、ニーチェはまるでニーチェが口を極めて罵る「僧侶」のような人だ。それはいわば、インテリの理想型で、エリートの一つの完成形なのだ。
 適菜氏はプラトン哲人政治を肯定する。そして、ニーチェキリスト教批判を通じて、民主主義すら(社会主義自由主義などあらゆるイズムと並んで)一つの宗教なのだという告発を我々に展開する。
 だが、民主主義思想には、泥沼の発達の歴史があることをすでにある程度知っている人がこれを聞いても、新味は別にない。
 ある種の初歩的な法制史や宗教史・社会史の知識を持っていれば、民主主義は憧れとしての一つの思想運動である側面とは違う、一つの『妥協的・消極的な選択』の上で選ばれた体制だという面が見逃せず存在していることを知っているからだ。
 「最悪の体制だが、他のそれはもっと悪い」みたいな言葉もある、あるやむを得ない選択が民主主義だ。
 哲人政治も、僭主制も、貴族政も、王政も帝政も、ある意味で試され済みで、みな駄目だったのだ。その共通するダメな部分は、民衆に政治の責任を持たせないということなのだ。
 民主主義とは、いわゆる衆愚政治の典型として、優れた人々による政治をダメにするガン、みたいな醜態もややもすれば呈するが、それ以上に『自分が統治されることを納得させる』体系だから、民衆が「よく言うことを聞く」体系でもあると言うリアリズムがある。
 一票を投じ、ゆえに結果の責任を背負わされますという、憲法学の用語を使えば「正当性の契機」を持っている。
 全員は架空だが、その架空さを権威付けるにはある種のエリート主義では置き換ええない自業自得感が統治される側に保証される必要があるのだ…。
 ニーチェも、適菜氏もこの政治のリアリズムを我慢出来ないタイプのニヒリスティックな理想主義者なのだろうと想像出来る。馬鹿にされるような愚かな試みはしない、だが、試みなきゆえに失敗もない・・・。『民衆』とは個々の利害さまざまを持った人間で、実はエリートとほとんど違いなどないのだ…。
 
 視点に基づく認識の世界しか個人の中にはない、と言う認識論の問題が本書では平易に提示されている。この平易さ自体は良いことと思う。
 では、認識される客体の存否は如何?さらに言えば、認識出来るかできないかの契機と客体の存否の関係は如何、とだけ言っておけば、この視点の問題は哲学的には片付く感もあるのだが、もう一言だけ余分なことも言える。
 ニーチェが、認識とは視点の問題であるというのなら、なぜ、ニーチェは自己の思想を書き残したのか。ニーチェの中でしか、ニーチェの思想は意味が無いはずだ。得体のしれない誰が作ったのかもわからないアルファベットで得体のしれない認識の歪みをくぐって自分の思想を他人に問う契機に乏しい。そして、それがなぜ適菜氏を感動せしめて思想を紹介しようという願望を起こさしめたかがわからない。
 客体を媒介にし、世界の実在に依拠しない限り、思想の伝播は、ワケの分からぬ観念の遊びになる。
 
 いろいろ言及したいことがあるが、ニーチェの難解さを取り除き、端的に紹介するという試みの意味は本書によく現れていると思う。
 だが、私はニーチェ的な考え方には、それこそ、メインストリームを歩きそこねたエリートの傷付いたルサンチマンの自己正当化にしか見えない。そして蛇足を付ければ一転与党になると突然尊大な自信家になりそうな予感もする。

 ニーチェの思想には実用性も、また、あまり自分自身のこころを動かす哲学的な問題もそれほどないことが分かってこの本を読んでよかったと思う。他の著者は、確かに勿体をつけてニーチェを語りすぎる。誰の本とも言わぬが同情禁止則をめぐる熱い語りというのは読むと疲れる・・・。

 さらに無責任な蛇足だが、ニーチェは健康を害さず、古典文献学をしっかりと一生やっていれば、多分今残っているニーチェ像の一切を残していなかったような雰囲気もある。『幸福な学究ニーチェ』の思想の方が、後世への衝撃度は少ないかもしれないが、実のある真に歴史を超えて残る成果があったのかもしれない、そんなことをふと思った。が、前言の通りこれはまったくの無根拠な雑感だ。

 啓蒙、とはエリートが「好きな」営みだ。優越感と支配、ニーチェ風に言えば僧侶風の喜びか。
 だが蒙を開かれる立場に民衆がいてはいけない。自分の蒙は自分で開いてゆく、そうなってゆかない限り、民主主義というやつも確かに『僧侶』に操られる一つのギミックには過ぎまい。