スガモ尋問調書

 

スガモ 尋問調書

スガモ 尋問調書

 この本は、極東国際軍事裁判東京裁判)のアメリカ側の記録に基づいて、東条英機広田弘毅板垣征四郎武藤章といった、処刑されたA級戦犯の尋問記録をまとめたものである。残念ながら本書は抄訳で、大川周明などの部分が落ちている。処刑者に絞るというのはひとつの基準だが、抄訳というものは常に原著に対して恣意的だ。できれば全訳であってほしかった。

 A級戦犯とはなにか、事後立法による構成要件の定立による裁判は合法的でありうるか、など、東京裁判を考える切り口はあるが、敗者の側の目は情緒的だ。圧倒的な力により敗北した後、据え物切りにされるのだから、はなから合法性を論じる気力も沸かない面がある。

 だが、ニュルンベルグ裁判と並んで、「見世物裁判」を避ける目的で国際軍事裁判が行われたのはやはりひとつの見識である。

 戦前の日本においては、軍法会議は非公開であり、大逆罪は非公開一審即決すら可能だった。現代の日本の司法水準から国際軍事裁判のあれこれを否定するのは割りとたやすいことだが、司法の光に、日本の近代はもともと乏しかった面を忘れることはできない。

 勝者の中の、冷静な任務の遂行者、ISP(国際検事局)の検察役の軍人たちの尋問は鋭いと同時に、日本の最高戦争指導者連に対し、敬意とともに単に司法戦略ではない弁明の時間の付与をしていた。敗者の情緒的な視点より、この勝者の中の驕らない、冷静な任務遂行者の視点こそ、事実を浮き上がらせる入り口になる、とこの本を読んで思った。彼らが何を雄弁に日本の戦犯告発を通じて語らせようとしたのか、そして、彼らがなぜ広田弘毅を「積極的軍国主義者ではない」と断じながらあえて絞首台に送る道筋を引いたのか。彼らが目立たなくさせようとしたことの中にこそ、この裁判の真実の一端が見え隠れするのだ。

 日本はサンフランシスコ平和条約とともに、この裁判の決定の承認を受け入れた。この点にすら議論は付きまとうのだが、裁判の結果を覆す意味ははたして誰の「名誉」の回復なのか。

 A級戦犯たちは、大声で、または小声で、天皇陛下万歳、を唱和し、絞首台へといった。

 焦土と化した敗戦国の枢要な戦争指導者に、それ以外の道がいくら残されていたのだろうか。

 彼らは愛国者だったのだろうか。ただ、国の愛し方を間違えただけなのだろうか。