今村均回顧録

 今村均について少し知りたくなり、文庫を読み始めたら、興味と疑問が次々と湧き、ついに回顧録を読破してしまった。
 いい読書経験だった。回顧録というジャンル自体ほとんど興味がなかったし、主観的な主張を容喙して頭に自分なりの理解を得ると言う作業は煩瑣で(本来はいかなる情報に対しても行なわなければならないことなのだが)仕事や作業でなければ読書としての食指は動かないのだが、この本は面白い。
 一言で言えば「人柄」なのだ。
 今村均陸軍大将はオランダ領インドネシアの征服者であり、ガダルカナル戦における陸軍側の事態収拾を行い、ラバウルに陣を張り終戦を迎えた。前線一方でもなく、陸軍教育総監部本部長として東条陸軍大臣の下で「戦陣訓」を起草したのも彼である。
 彼は軍略は粘り強く沈着、軍政においては徹底した撫民主義者である。ガダルカナル戦を目の当たりにした経験で、精神主義の克服を痛感し、ラバウル要塞においていかに物資の自己生産をしながら戦うかを徹底追求する。思想情報戦の考え方では反共色が強く保守的であるところを隠すことはなく、満州においては温厚にして統制意識が極めて強い軍人でありながら対ソ連情報工作では独断専行を侵す。インドネシア統治においてスカルノ初代大統領を見出し、戦後も続く協力関係を超えた友情を持つが、彼が容共路線であることには「支持基盤目当て」と一貫して厳しい態度である。
 戦後オーストラリア軍B級戦犯として懲役10年を受け、巣鴨プリズンに収容されるが、旧部下たち100名を含む約400名の日本軍人が服役するマヌス島での服役を数度拒まれながら強く希望し、マッカーサーから「真の武士道をはじめてみた」とまで言われこれを許され、従容とマヌス島にて服役する。
 釈放後は家の庭に「反省小屋」を作ってそこにて起居し、戦死・戦犯死した部下の菩提を弔う。
 これらの軍歴や軍人としての立ち居位置の中で、「人柄」の何が魅力かと言えば、彼は「悩む」軍人であるところだ。
 彼が大佐のころ、迫撃砲で吹っ飛ばされそうになったとき、部下二人が身をたてにしてかばってくれて命拾いをしたとき、彼は本気で「出家」を考えた。自分の命が今あることの罪深さに想い致したからだ。2.26事件で有名な真崎大将(当時中将)に「戦の習いであり、感傷だ」と厳しくたしなめられ、退役を許されなかった。しかし「罪滅ぼし」を考え「命を救う医者に」と息子を育てたいと考え次男を医者にした。
 彼の回顧録は、軍事的見地、歴史的見地からもいっそう面白いものであろうが、思想的なもの、特にその煩悶に興味を引かれる。戦死、戦犯死する部下たち。自分がいくら責任をとってもとりきれないほどの罪の海を彼は聖書と歎異抄を読みながら実践しつつ悩みつづけるのである。
 彼の回顧録は異本も多く、何度も発行されている。読者を得ただけでなく、自己顕示欲には比較的乏しいとされていた彼にしては大胆な行為なのであるが、合点は行く。印税のほとんどは戦死者を弔う事業に振り向けられたと言う。財産のない彼にはそうするよりはなかったようである。
 
 彼は「聖将」とまである人たちからは激賞されている。

 しかし、そんな彼も「戦陣訓」の著者として「生きて虜囚の辱め」を受けてはならないと説き、「敵の食料を降伏して受けず戦い抜いたあなたたちの精神力は東洋の清華だ」とガダルカナルの兵たちを誉める。一方でその残酷さに深く悩みつつ。
 習志野学校幹事時代、毒ガス訓練で自ら傷ついたとはいえ、兵を一人殺してもいる。やはり職業軍人としての業は深い人物である。

 また、石原莞爾将軍との関係は思想的にもポスト的にも対立関係にある感がある。どちらかが満州にあるときはどちらかが軍中央にいるような関係である。ともに作戦課長を経験しており、評価の高い軍人であったことははっきりしている。
 統制を逸脱した拡張的な大陸政策を今村氏は非常に厳しく見ている。一方で「お互い悪い関係ではなかった」としながらも「意見は食い違い今後を憂慮した」と記し、微妙なニュアンスがある。石原氏の側で今村氏に言及した事実は私は無学にして知らない。

 彼の敗戦理由の分析も面白い。これは機会があればぜひ読者の方にも読んでいただきたいところである。(この稿未完)

今村均回顧録

今村均回顧録

続・今村均回顧録

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 よくかけていて面白いです

責任 ラバウルの将軍今村均 (ちくま文庫)

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