石原莞爾

 石原莞爾中将をみなさんはご存じですか。(彼の姓は「いしわら」と読むらしい)
 私は、彼の書いた「最終戦争論」を読んで以来、きわめて興味深い存在だと考えていました。ドイツのナチス党のヒトラーを筆頭とする怪しい連中やイタリアのムッソリーニ元帥などに対して、ファシズムの仕掛け人なきファシズムなどと言われてしまう日本ファシズム界(?)の人材不足の中で、彼は政権中枢にいて、政策決定にも一貫して関わりながら、最終的には政府をでてしまうものの「哲学」あるファシズム、と言うより彼独特の「侵略」プランを提案します。
 その彼の「魅力」がよく分る本が今回紹介する「石原莞爾 生涯とその時代」です。上下巻分冊で高いので、地元の図書館に入れて貰いました。

 彼は何者ななのかが混乱するのは、満州国の国策大学「建国大学」にレオン・トロツキーを教授に招こうとしたり、「紋付き袴の右翼どもより労働運動をやっている左翼のほうがよっぽど誠実だ」とか放言したり、将軍なのに図書が発禁になったり(これは東条英機の嫌がらせ説が大)、明らかに満州事変の立役者なのに戦犯起訴を免れながら東京裁判で証人として「せいぜい日本は中陸軍国」とか発言したり、「最早ここに至っては新憲法の平和主義の精神でやってゆくべきだ」と護憲(!)発言までしてしまい、さらには「国民の支持がない天皇制など空しい」とまで爆弾発言する旧軍の将軍としてはあまりの言動・行動ぶりです。
 実際マルクス・エンゲルスを読みこなし、「徳田球一と論争しても勝てる」と豪語したりもします。右翼からは「石原はアカだ」と戦前から言われていたそうです。「アカ」が陸軍省で作戦部長までやるのですから恐ろしいものです。2.26事件を解決して以来、「護衛」の名の下に憲兵につきまとわれる生活だったそうです。彼は「佐官で(送迎の)車を出させたのは陸軍省始まって以来俺だけだ」なんて豪語していたらしいですが。
 
 ひょっとして、この人「赤色将軍」?

 でもどうやら全くそうではないようです。もちろん、科学的合理性を「左翼性」と呼ぶのなら、この人は左翼かも知れませんし、日蓮を熱烈に信仰していたこの人は「社会変革の情熱」という意味でも紙一重の「左翼性」があることも事実です。
 この人はそのよく知られている東洋主義を、満州事変を起こして以来深化させたようです。つまり、満州事変の後、軍閥やゴロが東洋人を金儲けに使役する現実を見て心底自分のやったことを後悔したようなのです。国策にタッチする高級将校になって以来、この人は一貫して「(シナ事変)不拡大」派にたちますが、「あんたが始めたことを引き継いでるだけだ」と関東軍の少壮将校に言われて、口から生まれてきたほど弁舌巧みなこの人が「あれには参った」と言っていたそうです。

 若い頃、兵隊に気を遣わず長距離行軍をさせて足をまめだらけにさせ、それを一生後悔して兵隊をいかに大事にするかにこだわったそうです。行軍で足にマメができない方法を研究していたそうです。

 この人は、つまり、「後悔」して「学ぶ」人のようです。
 頑ななまでに信条に固執して、破滅するタイプではないのです。
 彼はなんとか停戦しようとあらゆるつてで野に下ってからも画策したそうです。上官だったことがある東久邇宮や部下だった秩父宮など陸軍に関係した皇族と連絡を取って、なんとか戦争が起きないように、起きても終わるように画策したのです。

 彼が始めた満州事変は彼の愛した東洋の「秩序」を根本から破壊するものでした。東洋が一つになって西洋に立ち向かうという彼の「理想」は彼自身が画策した満州国立国があだになり、進みませんでした。彼自身もそのジレンマは十分分っていたようです。だから、事態の収拾に懸命に努力したのでしょう。

 しかし、一旦始めた戦争は、そう簡単には止まりません。
 彼は日本を破滅に導いた一人であると言う誹りは免れ得ません。しかし、「良き」軍人であったと言うことはできるでしょう。

 彼は太平洋戦争の最中、朝日新聞の記者にこんなことを言ったそうです。
 「戦争反対で紙面一面を埋められないか」
 「そんなことをしたら朝日がつぶれます」
 「つぶれたっていいじゃないか。もうすぐ戦争は終わる。そしたら立派な朝日が再建できる。」

 彼の人生は軍人であることの業がよく分る人生です。一気呵成に読める極めて面白い本でした。この本の著者は石原莞爾と同郷で、彼への入れ込み具合も感じる入魂の作品と言えるでしょう。


石原莞爾―生涯とその時代〈上〉

石原莞爾―生涯とその時代〈上〉