精神科医になる

 中公新書である。
 この本は色々な意味で、ある種の読者に対してのみ、やや「やばい」ところがある。
 この本に出てくる「精神科医」は読者から見たとき「等身大」になる。
 副題は「患者を<わかる>ということ」とかいてあるが、そのダイナミズムが逆転すれば「医師を<わかる>ということ」につながる。
 これは「白衣のプラゼボ(偽薬)」を全部引き剥がすことに他ならない。

 ただ、この本には抗精神病薬抗不安剤を服薬したことがある人間には直感として正しいと分る「すとんと落ちる」ことが記されている。
 即ち「薬物は構造に効く」と言う言葉である。
 なるほど、凡百の心いじりの教養本ではない。
 簡明にして現実味のある言葉です。
 
 さて、精神科医になることは、精神科医として働くことと同義ではないと著者は言う。
 では「患者」になることは、「医療を受ける」事とやはり同義ではないのか。

 林公一という匿名の精神科医は言う。
 「あなたを癒す医者だけを選べ(そういう医者こそが名医である)」
 患者には、オーソドックスかつ救いのある言葉である。
 本書の著者熊木徹夫はそういうオーソドックスな医師なのだろうか。先生自身が「語る」(下記のサイトも参照)豊富な臨床経験とともに、なにかまた別の「におい」もする。精神科医の「内部」にはどうやら、たまに「哲学者」がいてさらに「精神の観察者」がいて、それと別でありながらよく似ている「精神の生体解剖」者が混ざっている(それの総和を「精神病理学者」と呼べばいいのか)。
 彼らは医師である以上「癒すことは尊い」と「言う」。でも、実は心の奥深くでは「癒すことよりさらに興味深いことが心にはある」と考えている節がある。しかし、それも非常に理解できる。なるほど精神は玄妙で、より多くを癒すにはあまりに不明なことが多すぎる世界なのだ。解明することの重みは大きい。今日の患者を癒すにも「理解」や「解剖」が先立つ場合もあるのだろう。

 ここから先を書くのは止めよう。病を得た者は、どうせ「癒える」事を一直線には目指せないのだ。だとすれば、この本は精神科医を理解するにはとりあえず「適切」な感がある。
 
 だがとりあえず「適切」であれば、全系の情報の総和が提示された後も、なお、その選択が適切である保証はない。

 適切なことだけは出来ないならば、やらなければならないことがある。もう一度だけ言えば、この本はある種の読者にはリスキーな気がします。
 もちろん、心穏やかにして、社会に適切な位置を得ている人には、高邁な教養本であると言えましょう。

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

 

著者熊木徹夫先生のサイト
http://www.dr-kumaki.com/

林公一先生のサイト
「Dr 林のこころと脳の相談室」
http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/index.html

※両先生のスタンスの違いを見て頂くといろいろ面白いと思います。
(参考??)こういうスタンスのドクターもいます。PN:風野春樹先生の、
サイコドクターぶらり旅」
http://psychodoc.eek.jp/diary/