随想:読書していられる日常

 30過ぎてぷー同然(そのもの)の生活をしていて思うのは、「本を読むという時間は実は貴重である」と言う事実に他ならない。
 分厚い文学書や哲学書に手が伸びなくなるのは当たり前の話で、就職してからの読書というのは、基本的に「娯楽」か「実用」なのである。何故なら、就職という行為で「自分探し」のようなことは一応終わっているのが建前で、「世界をどう解釈するか」とかそういうことは「娯楽以上」にまではみ出すことはあまり無いからである。
 しかし、30ぷーは未だ「強制自分探しモード」である。
 年はとっているのだから、「今更探していたって、井上陽水の歌みたいなものでそれよりも実行しなければならないことの方が多いンじゃん?」というのも分っている。それでも自分の「射程」や「座標」が定まっていないのだから仕方がない。
 
 仕事に就いていたときは、読書はどんどん情報摂取源へとなりはてて往き、自分と世界を結ぶものではなくなって行く。頼みの仕事だって自分と世界を「結んで」いるかどうかは怪しいものだ。(こうして首になってプーになるかも知れないし、現になっているわけだ)
 
 読書している時間は貴重だ。青春の時期にはそれは分らないし、分ってもいけない。現に、こうやって読書が出来る時間が戻ってきてみると、時間が貴重であるという感覚は失せて行くのだ。

 人間ってうまくできているものだ。