日本語に主語はいらない

 語学は苦手です。全く苦手意識から抜けられません。数学よりさらに苦手意識が強いです。数学は、苦手ながらも突き抜ければ、その問題だけは理解できるのですが、語学は(要するに英語)幾らやっても、いつまでも難しいです。
 「勉強法が間違っている」「テープを流して聞くだけで…」「そもそも、日本の英語教育は…」と商品開発に余念がないところを見ると、語学を苦手だと思う人、でもやらねばと思う人は多いと思われます。
 さて、増して言語学って難しいです。哲学と、論理学と、語学の難しいところをみんな引き受けたようなイヤさがあります。文化論まで当然に関わってきます。勘弁してくれのてんこ盛りぶりです。素人にはお勧めできない、刺すか刺されるかの世界です。それがきっと玄人にはいいのでしょうし「×××、○○○はすっこんでろ(一部自主規制)」と言わんばかりの専門世界が展開するわけでしょう。
 大体、日本語の現代文法ですら、脱落者続出だと思いませんか。文法を学ぶことと、正しく美しい日本語を書いて理解することの相関を見いだす前に(筆者は当然見いだしていない(汗))脱落が大体のパターンです。文法の「役割」とは何なのでしょうか?

 この本、日本語に主語はいらない、は「言語学者にして・日本語教師」がみなが忘れていた「文法の意味」を問いかける野心作です。
 印欧語属の言葉のような「主語」は日本語にない。主語なしで、美しい、成文(文法文)の日本語が成立している現実を見なさいと著者は言います。
 その上で、「は」と「が」の違いを懇切丁寧に記し、「主語を無理矢理つくった日本語文法」の末路(!)を指し示すのです。

 過激な本です。

 優れた言語解釈とは、優れた哲学と強靱な論理性、言葉を求める社会性の全てにおいて優れていなければならないことを感じさせてくれた名本だと、この本のことを思いました。今もたまに読み返します。

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

続編ですね。また刺激的なタイトル。
英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ

英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ