論語物語(下村 湖人 著)講談社学術文庫

 またまた講談社学術文庫である。

 この本は昔角川文庫に入っていて、内容は読み合わせてみたが特に変わったところを見つけることはできなかった。旧字体から新字体に変わったところくらいだ。
 他は、解説が付いたことか。

 この本は一体、どういうジャンルなのだろうか?
 思想書、古典の入門・容喙のための書、文学…。
 いろいろあるのだろうが結局、
 「求道書」
 と言う分類(?)に落ち着く気がする。そんなジャンルがあるのだとすれば。

 著者は「次郎物語」とかが有名な下村湖人氏なのだが、目下注目の著者!と言う人とはほど遠い感があります。どちらかというと、時間に応じて埋もれて行っている人という感じもします。今の時勢に合っているか、と考えても、合っている人とも思えません。

 しかし、忘れられない人が「優れた」人で、埋もれてゆく人がそれより「劣って」いるのだろうか。
 郷原は徳の賊、などとも言いますね。そう、この言葉は論語の言葉です。古里でわあわあよろこばれてやに下がっているひとなんてたかが知れているわけですし、それを目当てに自分の周りばかり依怙贔屓する輩など、徳の賊、な訳です。まして自分の銅像が建ったりすると嬉しい人なんて(自分で立ててしまう不届きものもいますが)終わっているのは銅像を建てたくてウズウズしている人以外は誰でもそう思うでしょう。

 下村氏の「論語」は「彼だけの論語」です。(彼は論語の口語訳も出している)新注や古注の注者の「論語」が存在していると言う意味だけでなく、彼は「論語」を生きた人なのです。
 本書中の「伯牛疾あり」を読むと、そのことが分る気がします。
 要約しますと、孔子の弟子であった、人徳の士伯牛は当時不治の病であったハンセン氏病に倒れます。
 著者は「らい病」と書きますが、それは時代の制約ですからこういうところにいちいち鼻をクンカクンカさせていては文字が読めて文が読めない人も同然です。自分がハンセン氏病でもない限り取るべき態度ではありません。
 さて、伯牛は葛藤します。自分は、徳を目指してきたのに、何故結末は残酷な病の後の死なのだろうか、と。
 「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は恐れず」のはずなのに、伯牛は惑い、憂い、恐れます。そして、師を疑うのです。自分の容貌が衰えた時から、師は自分の見舞いに来なくなった、と。
 しかし、師は来ます。そして伯牛にこういいます。
 「手をお出し」
 そして伯牛の手をぐっと握り、この愛弟子にこういいます。
 「伯牛、おたがい世を終わるのもそう遠くはあるまい。くれぐれも心をやすらかにもちたいものじゃ」
 
 この孔子は、下村湖人氏だけの「孔子」であり、彼だけの「論語」です。
 
 遠藤周作氏は色々な作品によく似た描写を出すのですが、カトリックの学校に行っていた自分が、らい病院を慰問に行き、野球を一緒にやった時、凡打を打った時に患者にさわられそうになった時うずくまってしまった自分にたいし、その患者が「お行きなさい、触れませんから」と言ったと書きます。その時、彼は自分のカトリックの信仰を根底から見つめ直さざるを得ない経験を得たかのごとく描写するわけです。 

 下村氏の孔子は、下村氏の作り物なのでしょうか。それとも、孔子がそういう人で、下村氏はそういう孔子を必然として書いたのでしょうか。

 確かに孔子は「義を見てなさざるは勇なきなり」というのですが、そんなきれい事なのでしょうか。

 多分、下村氏が孔子に道を求めて、自分がそういう人間に「なった」。それを孔子に託して書いたのだと思います。私は角川版で読んだのでこのエピソードは知らなかったのですが、解説者の永杉喜輔氏によれば、下村氏は、弟子の青年が結核に倒れた時、死に際その身を抱きしめたそうです。まだ、結核が死病だった頃です。
 下村湖人氏は、「本物」だったわけです。

 孔子にとっての「本物」は「周公旦」だったわけで、周公にとっての本物は堯帝や舜帝だったわけで、堯帝に取っての本物はおそらく神農などであり、彼らが仰ぎ見たのは彼らの始まりとされる天の道理たる「天帝」だったわけです。

 それは、それぞれの関係性についてさえ、「おとぎ話」なのに、それぞれの間は固く結ばれている、という奇妙な話です。でも、彼らは一つの道を歩むのです。

 人へのあこがれがその人を本物にすればそれは「盲信」なのでしょうが、その人の本物さを信じる人が命をかけて、しかもごく当たり前に証明してしまうことこそ、「信仰」に値し、そのための努力こそが求道なのでしょう。

 そう、だからこの本は多分「求道書」です。
 そして、求道の記録は埋もれてゆきます。忘れられてもいいのです。誰かがその人を仰ぎ見て本物と思いたい時、思わざるを得ない時、そう思いたい人が、自らの行動と実践で「下村湖人」たればいいのです。

 でも、そういう本が本棚にあってもいいと私は思います。彼のようにはなるつもりもないしなれないでしょうけど。 
 

論語物語 (講談社学術文庫)

論語物語 (講談社学術文庫)

 
下村湖人の「口語訳 論語」は残念ながら絶版のようです。