雑想:金はなくとも本は買う。それが斜陽なる「教養」への愛

 金はなくとも本は買う。

 私は本当に金が一文もない時以外は、ついつい本を買ってしまう。買いに行って予定外の本を大概引っかける。気に入ったらもうダメなのだ。
 特に危ないのは、銀行から金をおろして、ふらりと本屋に入った時などだ。大体お金を手に入れたら、ふらりと本屋に寄ってしまうと言うこと自体よろしくない。別に本を読むことで飯の種を稼いでいる訳ではないのだ。純然たる浪費だ。そういう意味ではキャバクラとかにゆくのと大して変わらない。給料入ったからネーチャンとのむべ、と言う精神態度とさほど距離はないのだ。
 経済的打撃や時間の浪費、と言う点でも、「やるべきこと」(つまり、生活に必要な活動としての勉強や情報収集)と直接関係ない、または極めて関係が薄い読書というのはほどほどにすべきなのだが、ダメなのだ。
 しかも、金がなくとも、衝動的に有り金で欲しい本は買ってしまうわけである。

 これは「正しい」態度なのか。
 
 もちろん何をもって正しいとするかの規範を打ち立てて、その範疇に当たるか当たらないかで判断すればよいのだが、経済的範疇で考えれば「私は馬鹿」それで結論は終わりだろう。実際、この問題の6割以上の回答はここに尽きると思う。

 が、本を読むという行為に、キャバクラでネーチャンと飲む(例えば、である。麻雀を打つとかでもよい。ネトゲーとかもよろしい。)以上の意味を何故か求めたくなるのだ。
 それは、論理展開を省略すれば、つまり「教養」を求めていると言うことなのだろう。
 この頃は情報としての読書はもう、二次的三次的だと思う。「ググれ(訳:googleで検索しろ)」などと言うジャーゴンがちまたにはあるが、何か言葉の意味や周辺情報を知りたければ検索一発でnetからいろんなものは引けるのである。(ネットは広大だわ。)
 では何故本を読むのか。無駄な金を投じてまで。無駄だと分っていても。

 「情報」対「教養」のカラミはきちんと論じれば面白いのだろう。
 が、まあやめておいて、人間はその人生を自らの意味で動かすためにこそ情報を取捨選択して己の意志で取り入れる、その上で自覚的に自らの人格を再構成するところまでにその情報の取り入れ方を自分で制御したいのだ。
 「教養」への傾斜とは、つまり、自分で知りたいことを自覚的に知り自己を再構成たい意志だ。飯の種になるかどうかは関係ないのである。

 「教養に生きる」と言うことを覚悟(というか、予定程度でもかなり危ない)する者は経済的範疇を捨てて、そこに悦楽が見いだせる限り、自己目的的に本を求める。自分がそこまでの覚悟があるかどうかは分らないが、まあ、相当に経済的に困窮しているのに、好きな本を手に取ると顔がほころび、何かが犠牲になることが分かり切っているのに一抱えの本をもって本屋のレジに向かうと言うことは、そういう範疇の人間なのだと思う。

 が、教養主義(「実践的行動規範」だからやはり「主義」だろう)は、斜陽だ。はっきり言って今の世の中、飯の種を必死で稼ぐ世の中であり、こんなことをしていると身を滅ぼすのである。
 キャバクラ、賭け麻雀、ネトゲーなどと並んで、教養主義というのは危険であり、妻子が惑い、親が泣き、親族に窘められ、友人が逃げ、最後は夜逃げで野垂死に、教養主義も過ぎたれば、結論はそこである。

 で、あるので、教養から得た何ほどかのもので多少は理性というものを想念して考え、教養中毒はほどほどにし、妻が泣く程度にとどめておくのがいいと思うのである。

 しかし、主義である以上、止まらない気もするのだ。自分は半端であるが、半端教養主義者を止める気にならない。痛い目にあったら変わるかなとも思うのだが、失業、病気、不定期雇用、親との確執など、結構痛い目にあっているのだが、直らない。

 「馬鹿は死ななきゃなおらない」と言うことであろう。

 結論:金がなくても本は買う。でも借金してまで買う(例:クレジットカード)のは止そう。