自分のなかに歴史を読む

 お久しぶりです。
 書評を書けない日々が続きました。読書が断片的になっていたのです。勿論、断片的な読書が悪いわけではありません。それは生きてゆくうえで、必要な様式です。
 感想が持ちにくい読書もまた然りです。それもまた人生に欠くべからざる、ある動作(たとえば経済活動)をするために全く有効なものです。軽んずべからざるものです。

 しかし、やはり、一冊の本を、自分の魂のような、心のような、思いのような、そんなものを揺らがせ、戦がせ、ざわめかせ、燃え上がらせ、ふと想いより我に返ったりしながら読むのはやはりいいものです。生きる目的足りえる、優れて人間にしかできない営為です。

 さて、私は表題の書「自分のなかに歴史をよむ」と言う、一冊のちくま文庫を数日かけて読みきりました。200ページ強の文庫本ですから、入門書的な人文書ならば数時間で読める本です。昔の自分なら展開が楽しみで、すぐに読んでしまったでしょう。

 でも、それはこの薄い文庫本をゆっくり読んで、自分の中にある、ある焦りと愚かしさの為せる業であり、時間が自分を本をゆっくり読める人間にしたのだ、と感じました。

 この本は、高校生向けに(そう、17歳くらいの人向けに)阿部謹也と言う、高名な歴史家が記したものです。 

 私は読み進めて思いました。この本に17歳のときであっているべきだったのか、勿論然り。しかし、出会っていたとして理解できただろうか。否。残念ながらそれが答えでした。
 
 この本の最初の版は筑摩書房刊の同題名の単行本で1988年3月刊です。まさに私が高校生だったときです。この後、阿部氏は一橋大学の総長となり、私は別の大学で学生をしているときに、自治会活動の中で阿部氏が大学改革の中で一橋大学学生自治会と交渉する姿をわき目で垣間見ることになります。氏は私の人生をかすかに、ほんの微かにだけ実際に横切った人間です。

 氏は私の卑小な認識を超えてはるかに偉大な存在であることは、網野善彦氏の著作や対談を通じて、ありありと思い知らされました。そして、あの「ハーメルンの笛吹き男」を私も読みたいなあ、とたまに頭の片隅をよぎるのでした。実際に氏の著作にふれたことはあるのですが、文体はやわらかく理解は平易に見えて、内容の濃さに圧倒されて行き疲れると言うパターンが多かったです。

 この本も、これが高校生むきか、と驚きました。配慮は張り巡らせてあって、平易に理解しやすく噛み砕いてあるのですが、内容の面の妥協がまるで感じられません。17歳向けの本に、またも37歳の私は敗北するのかな、と微かに思いましたが、今回は氏の教育的な配慮の賜物で読みきることができました。そう、たった200ページの本なのに、読みきれてうれしいのです。
 知的に啓発され、知的に課題を与えられたのがわかるのです。

 上原専禄と言う、やはり戦後一橋大学総長を努めた歴史家がいます。この人こそ、阿部氏の師匠です。上原氏と阿部氏の間でやり取りされた「学問に誠実な人同士のすがすがしい関係」については、その部分だけで本書定価600円をはるかに超える価値のある記述であるとあえて断言します。
 余談ですが、私は、この本を何気なくブックオフで350円で買いましたが、読み終わったあと、丁寧に350円の値札を剥がしました。氏は物的関係に終始しない歴史の登場人物たちの文化的なつながりの側面を究めようとしたのですが、私にはこのあからさまで無礼な値つけがなぜか疎ましかったのです。
 さて、上原氏は阿部氏に卒論のテーマを相談するうちにこの一言を得ます。
 「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」。
 阿部氏はこの言葉を聴いて、もうほかの質問はできなくなったそうです。
 
 私のごとき阿呆ならば、この言葉の重みをわきまえずに分かりもしないで腰の定まらない質問を繰り返したと思います。それは、20台の私のしてきたことですから手に取るように感じます。

 氏は3ヶ月も考え続けるのです。この誠実さこそが、知的営為に品性を与えるのだなあ、と思いました。いわゆる頭のよさとは違った「賢さ」とはこういうものなのだなあ、と感じ入りました。

 この本について書きたいことはいくらもあるのです。でもこのくらいにしておきます。
 
 氏はこの本で歴史を自分の人生のなかで捉えなおして提示して見せます。氏の人生は「阿部謹也小史」であることにとどまらず、「歴史」を内包しているのです。氏は歴史に関わることを「内面化」したのです。これはいわゆる「業績」とは違った、「偉業」に感じます。つまり、氏は幸福の問題を(暫定的にであるにせよ)解決したのかもしれないのです。自分がそうしなければ生きてゆけないものを生きることこそが氏の幸福で、それが歴史だったのです。

 氏はあとがきで「本書は私の理解した限りでの歴史研究という、きわめて狭い範囲のものであることをお断りしておきたい」と言います。でも注目すべきは、その前の言葉です。
 
 「・・・私にとって歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内奥と呼応しない歴史を私は理解することはできない・・・」

 自分のしていることが理解の段階に及ぶと言うことは、確かに、「内奥に呼応」しないと不可能に近いのではと思います。
 でも、生きると言うことを率直に歴史の入門書にできてしまうほど、自分の課題に誠実だった人生に、私は畏敬しました。

 間違いなく良書です。内容の肯定否定すら、超越して良書だと言える本に始めて出会った気がします。

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)