権利のための闘争

 岩波文庫です。はじめて読んだのはいつだっただろうか。大学生のはじめの頃だった気がする。法学部の友人、所謂後輩だが、大学に長々と居たし、付き合いが長くなると自分の何が先輩かなんかなんて訳が分らなくなるもので、彼から教えて貰った気がする。

 「権利=法(Recht)の目標は平和であり、そのための手段は闘争(KAMPF)である。」
 
 権利の追求は、著者の論の上では最終的には人格が社会を生存して行く意義にまで昇華して行く。「権利=法が闘争の用意を止めた瞬間から、それは自分自身を放棄したことになる」

 法は実際的なもので、「権利の追求そのもの」のために訴訟沙汰をする馬鹿は居ないと思う反面、政治的動機で「権利追求」そのものを旗頭に掲げて訴訟を起こすことも社会ではままあります。この本は「権利追求」を自己目的化させてきた法的思想のある種の結節点になったことは間違いない考え方をオリジナルに語ったものと考えて良いでしょう。

 「権利感覚が自己に加えられた侵害行為に対して実際どれだけ強く反応するかは、権利感覚の試金石である。」

 権利感覚と言えば、現実世界では持っている事イコール「痛み」の感があります。権利と侵害が緊張する側面は常にその時代の政治的な力関係の焦点だからです。この緊張を迎え撃つのか、背を向けるのかについて「強く反応する」ことをイェーリング大先生は薦めているのですが、その動機は「人倫」にまで上昇してゆき、矯激さは増すのですが、「健全さ」の代償はいかにも大きそうです。
 
 自動販売機のような法システムは人と人の緊張である以上望めませんが、「自分の苦痛を避けるために、自分の権利を売り飛ばして何が悪い!」と開き直る人は確かにあまりいません。そうすることはいかにも露悪的です。
 しかし、自分の権利を妥協することは悪徳のようでも、実は呼吸のように広範に行われている行為の感もあります。

 権利の追求のために法システムを使い尽くして「権利のための闘争」をすることは、積極的に社会の犠牲になる(「さらし者」と言い換えてもいいでしょう)事を覚悟することです。

 イェーリング大先生はやはり極論者です。
 しかし、彼の主張を基底にした法システム活用が社会にもたらした物の大きさ、さらには偉大さには心を致すべきだと思います。

 自らのために戦い抜くこととは、自ら他者の礎になること…そういう「闘争」のパラドックスを余すところ無く書き尽くす書物ともこの本は言えるでしょう。

権利のための闘争 (岩波文庫)

権利のための闘争 (岩波文庫)