僕の叔父さん 網野善彦(中沢 新一 著)集英社新書

 網野善彦氏がなくなられて早1年がたとうとしていますが、何となく書店でみたのですが、「中沢新一だし」と食指が動かなかったこの一冊(氏には超失礼であるが)。表紙で「ああ、網野氏って中沢氏と親戚だったのだ、知らなかった…。」という雑感を得ただけだったのだった。
 が、畏友が「意外にいい」と言ったのを受けて、求めてみた。場所は家のそばの郊外型大規模書店。こういうところで本を求めるのが定番になってきた。

 さて、感想を言えば、すごくいいのです。もとより、このblogは「それなりに読んで意味があったと思う本」しか紹介しないつもりです。それは批判をしないとか、否定的意見を言わないとか言う意味ではないのです。
 が、この本は、「網野善彦氏」に何らかの思い入れがあった方にはかなりおすすめできるものと思います。 
 
 何がいいのか。この本は『ロシアの革命』に続き、またも「革命論」の本なのです。まあ、それだけ、網野氏や中沢氏の周辺に左翼的な気概(中沢氏の言葉で言えば「超越的=トランセンデンタル」なものへの憧れ?なのか)に満ちあふれた実にいい本なのです。
 
 自分の中にある左翼性をどう解釈するかは、左翼的な思想傾向を持つ人間の中ではある意味スターリン批判以降、厳しい自己検定が必要なのは論を待たないと思います。いや、自己検定しない人は当然に左翼ではなく、「左傾的保守」と呼ぶにすら値しないと僕は思うのです。自己検定なき思想は、もとより信仰告白に過ぎないわけでしょうが。

 さて、そんな戯れ言はさておき、この本の中で一番気に入ったのは「コミュニストの子ども」という概念です。詳しくは是非読んでみて下さい。
 充実した内容を感じた部分は平泉澄アジール論における再評価
についてや、飛礫(つぶて)の発生を網野・中沢氏やそのご家族がどのように家族の中の話し合いで発見していったかなどは「知的・思想的交流をお互い本気でしようとする家族」に生まれるとどんな冒険が家族での会話の中に生まれるのか、すごくドキドキする内容です。

 中沢氏のみた網野氏は、僕が非才にして網野氏の数冊の本を読みつつ遙かな高みを憧れたそのものである網野氏と、それほどかけ離れておらず、かつ、その中で何が起きていたかがかいま見られるところに、僕はこの本の極めて貴重な一面を発見したのです。
 そう、トランセンデンタル(そうとは知らず)へなぜ自分が傾斜しつつ社会運動的なるものを自己が志向するのはなぜかを、中沢氏は網野氏との関係性をこの本で開示することで見せてくれたのです。 

 この本は、網野氏とその学問にある程度の興味を示している人には必要不可欠なものの感があります。これから網野氏が示してくれた歴史理解をもっと深めて行きたい、分りたい、そんな気が高まって行くすがすがしい読書体験でした。

※暫定的な感想として、もう少し付け加えるかもしれません。 



僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)