はじめてのニーチェ
- 作者: 適菜収
- 出版社/メーカー: 飛鳥新社
- 発売日: 2010/06/08
- メディア: 単行本
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久しぶりの読書ブログで、何を題材にするか迷ったが、適菜収氏のニーチェの思想と著作についての啓蒙的な本書とすることにした。
本書は、「1時間で読める超入門シリーズ」とあったが、なるほど、布団の中で1時間程度で読めた。
だが、本書は、氏の『アンチクリスト』訳書で前紹介した『キリスト教は邪教です!』http://d.hatena.ne.jp/ayakuriya/20050725の読後感とは、少し違うある赤裸々を感じた。
そして、私は本書の思想的勧めには到底乗れないという決断を本書だけで出すことができた。そういう意味では、コンパクトに言いたいことが言えているよくまとまった本で、あからさまに啓蒙的な入門書とバカにせずに一読する価値がある。
一つの問題はエリート主義、もうひとつの問題は、視点、パースペクティブの問題である。
適菜氏は、ニーチェを大衆蔑視の人ではなく相応の幸福を大衆に保証しようとした人だという。なるほど、そういう「願望」をニーチェはもっていたかもしれない。だが、本書を読めば読むほど、ニーチェとはただ考えを語る人で、何かを現実化するためのプランを書き、それを実行し、成功したり失敗したりして、何かを得たり失ったりする人ではないのだとわかる。ニーチェは予言を垂れ流し、ある現実の一面を鋭く告発する力ある言説をするが、それ以上でもそれ以下でもない、そう、ニーチェはまるでニーチェが口を極めて罵る「僧侶」のような人だ。それはいわば、インテリの理想型で、エリートの一つの完成形なのだ。
適菜氏はプラトンの哲人政治を肯定する。そして、ニーチェのキリスト教批判を通じて、民主主義すら(社会主義・自由主義などあらゆるイズムと並んで)一つの宗教なのだという告発を我々に展開する。
だが、民主主義思想には、泥沼の発達の歴史があることをすでにある程度知っている人がこれを聞いても、新味は別にない。
ある種の初歩的な法制史や宗教史・社会史の知識を持っていれば、民主主義は憧れとしての一つの思想運動である側面とは違う、一つの『妥協的・消極的な選択』の上で選ばれた体制だという面が見逃せず存在していることを知っているからだ。
「最悪の体制だが、他のそれはもっと悪い」みたいな言葉もある、あるやむを得ない選択が民主主義だ。
哲人政治も、僭主制も、貴族政も、王政も帝政も、ある意味で試され済みで、みな駄目だったのだ。その共通するダメな部分は、民衆に政治の責任を持たせないということなのだ。
民主主義とは、いわゆる衆愚政治の典型として、優れた人々による政治をダメにするガン、みたいな醜態もややもすれば呈するが、それ以上に『自分が統治されることを納得させる』体系だから、民衆が「よく言うことを聞く」体系でもあると言うリアリズムがある。
一票を投じ、ゆえに結果の責任を背負わされますという、憲法学の用語を使えば「正当性の契機」を持っている。
全員は架空だが、その架空さを権威付けるにはある種のエリート主義では置き換ええない自業自得感が統治される側に保証される必要があるのだ…。
ニーチェも、適菜氏もこの政治のリアリズムを我慢出来ないタイプのニヒリスティックな理想主義者なのだろうと想像出来る。馬鹿にされるような愚かな試みはしない、だが、試みなきゆえに失敗もない・・・。『民衆』とは個々の利害さまざまを持った人間で、実はエリートとほとんど違いなどないのだ…。
視点に基づく認識の世界しか個人の中にはない、と言う認識論の問題が本書では平易に提示されている。この平易さ自体は良いことと思う。
では、認識される客体の存否は如何?さらに言えば、認識出来るかできないかの契機と客体の存否の関係は如何、とだけ言っておけば、この視点の問題は哲学的には片付く感もあるのだが、もう一言だけ余分なことも言える。
ニーチェが、認識とは視点の問題であるというのなら、なぜ、ニーチェは自己の思想を書き残したのか。ニーチェの中でしか、ニーチェの思想は意味が無いはずだ。得体のしれない誰が作ったのかもわからないアルファベットで得体のしれない認識の歪みをくぐって自分の思想を他人に問う契機に乏しい。そして、それがなぜ適菜氏を感動せしめて思想を紹介しようという願望を起こさしめたかがわからない。
客体を媒介にし、世界の実在に依拠しない限り、思想の伝播は、ワケの分からぬ観念の遊びになる。
いろいろ言及したいことがあるが、ニーチェの難解さを取り除き、端的に紹介するという試みの意味は本書によく現れていると思う。
だが、私はニーチェ的な考え方には、それこそ、メインストリームを歩きそこねたエリートの傷付いたルサンチマンの自己正当化にしか見えない。そして蛇足を付ければ一転与党になると突然尊大な自信家になりそうな予感もする。
ニーチェの思想には実用性も、また、あまり自分自身のこころを動かす哲学的な問題もそれほどないことが分かってこの本を読んでよかったと思う。他の著者は、確かに勿体をつけてニーチェを語りすぎる。誰の本とも言わぬが同情禁止則をめぐる熱い語りというのは読むと疲れる・・・。
さらに無責任な蛇足だが、ニーチェは健康を害さず、古典文献学をしっかりと一生やっていれば、多分今残っているニーチェ像の一切を残していなかったような雰囲気もある。『幸福な学究ニーチェ』の思想の方が、後世への衝撃度は少ないかもしれないが、実のある真に歴史を超えて残る成果があったのかもしれない、そんなことをふと思った。が、前言の通りこれはまったくの無根拠な雑感だ。
啓蒙、とはエリートが「好きな」営みだ。優越感と支配、ニーチェ風に言えば僧侶風の喜びか。
だが蒙を開かれる立場に民衆がいてはいけない。自分の蒙は自分で開いてゆく、そうなってゆかない限り、民主主義というやつも確かに『僧侶』に操られる一つのギミックには過ぎまい。
スガモ尋問調書
- 作者: ジョン・G.ルース,John G. Roos,山田寛
- 出版社/メーカー: 読売新聞社
- 発売日: 1995/08
- メディア: 単行本
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この本は、極東国際軍事裁判(東京裁判)のアメリカ側の記録に基づいて、東条英機、広田弘毅、板垣征四郎、武藤章といった、処刑されたA級戦犯の尋問記録をまとめたものである。残念ながら本書は抄訳で、大川周明などの部分が落ちている。処刑者に絞るというのはひとつの基準だが、抄訳というものは常に原著に対して恣意的だ。できれば全訳であってほしかった。
A級戦犯とはなにか、事後立法による構成要件の定立による裁判は合法的でありうるか、など、東京裁判を考える切り口はあるが、敗者の側の目は情緒的だ。圧倒的な力により敗北した後、据え物切りにされるのだから、はなから合法性を論じる気力も沸かない面がある。
だが、ニュルンベルグ裁判と並んで、「見世物裁判」を避ける目的で国際軍事裁判が行われたのはやはりひとつの見識である。
戦前の日本においては、軍法会議は非公開であり、大逆罪は非公開一審即決すら可能だった。現代の日本の司法水準から国際軍事裁判のあれこれを否定するのは割りとたやすいことだが、司法の光に、日本の近代はもともと乏しかった面を忘れることはできない。
勝者の中の、冷静な任務の遂行者、ISP(国際検事局)の検察役の軍人たちの尋問は鋭いと同時に、日本の最高戦争指導者連に対し、敬意とともに単に司法戦略ではない弁明の時間の付与をしていた。敗者の情緒的な視点より、この勝者の中の驕らない、冷静な任務遂行者の視点こそ、事実を浮き上がらせる入り口になる、とこの本を読んで思った。彼らが何を雄弁に日本の戦犯告発を通じて語らせようとしたのか、そして、彼らがなぜ広田弘毅を「積極的軍国主義者ではない」と断じながらあえて絞首台に送る道筋を引いたのか。彼らが目立たなくさせようとしたことの中にこそ、この裁判の真実の一端が見え隠れするのだ。
日本はサンフランシスコ平和条約とともに、この裁判の決定の承認を受け入れた。この点にすら議論は付きまとうのだが、裁判の結果を覆す意味ははたして誰の「名誉」の回復なのか。
A級戦犯たちは、大声で、または小声で、天皇陛下万歳、を唱和し、絞首台へといった。
焦土と化した敗戦国の枢要な戦争指導者に、それ以外の道がいくら残されていたのだろうか。
彼らは愛国者だったのだろうか。ただ、国の愛し方を間違えただけなのだろうか。
石原莞爾のヨーロッパ体験
- 作者: 伊藤嘉啓
- 出版社/メーカー: 芙蓉書房出版
- 発売日: 2009/06
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今回から体裁を変えて、最初にアマゾンの紹介をもってくることにしました。書肆情報をわざわざ書く手間も省けますし、短くて済みます。
石原莞爾は卓越した軍人であり、世界観的な著書もある大人物だ、そういう理解がされている。
私はいくつは留保はあるが、彼は基本的にユニークな人物だと思う。ただ、彼には、侵略主義的な帝国陸軍の軍人であったという以前に、入れ込むに難しいいくつかの点がある。
その中のひとつが、彼の法華経信仰だ。彼の東洋主義の成就を展望した世界最終戦争論の中では法華経の法滅の時限の教示を堂々と世界最終戦争の無視すべきでない根拠として引用する一方で、詳細で華麗な戦史研究で、同時に読者を魅了するのである。
信仰者にして、高級軍人。
残忍冷酷な侵略者なのか、兵をも思いやる温かい家父長的指導者なのか。
背反するものを多く同時に秘めるのも、歴史に残る人物の特徴なのかもしれない。
本書は、表題のとおり、石原莞爾の青年時代のヨーロッパ留学中の書簡や日記に著者が注釈を加え、石原莞爾の人となりの輪郭に迫る意欲作でなかなか面白い。
ただ、注意して読むべき書だと、二読して思った。この本は、著者自身の「思い」と史料的根拠が明確に対照されていない。どこが思いで、どこが著者が史実と同定したのか読んでいてもわからない体裁になっている。
本書は、一種の研究エッセーであって、研究書ではないと思う。しかし、単なる主観エッセーと呼ぶには、著者は非常に力を入れて書いている筆致である。
思うに、石原莞爾を否定するにしても、肯定するにしても、冷淡に流せない何かが彼の軍人を勤める姿勢にある。
彼は愛妻家だったそうだ。数日おきに妻に手紙を送るのが夫の義務であり愛情だと思ったらしい。彼の文はうまい。立ち読みでもいいので本書を読んでいただくとそれはわかる。味のあるいい手紙や日記の断片である。それだけでも本書は読む価値がある。でも、豊富な知識を必要とする内容の濃い手紙を日をおかず出し続ける石原莞爾に、妻は対応しきれずあまり手紙が出せない。大いにそれを不満に思う石原莞爾という図式があったようだ。
一方、彼は核家族化を予言し、新時代の夫は妻を尊重して当然という意識があったようだ。ヨーロッパがそうだから、という意味ではなくそう思っていたらしい。
その他共産主義に対する深い関心と研究(肝心のその内容が示されていないのは本書に対するいささかの恨み)、ヨーロッパ生活を丸ごと理解するために、ホームステイまで企て、四苦八苦して面白おかしく手紙に書く彼の人物の味は、記すに足るだろう。
面白い本であった。それだけに、丸ごと事実と受け取るには、根拠付けがあいまいな部分があり、今後の課題としてとっておくべきなのか、高齢で集大成的な仕事の余禄に、本当にしたい楽しみごとをされた著作と捕らえて、エッセーとして楽しむべきなのか、難しいところだと思う。
自分のなかに歴史を読む
お久しぶりです。
書評を書けない日々が続きました。読書が断片的になっていたのです。勿論、断片的な読書が悪いわけではありません。それは生きてゆくうえで、必要な様式です。
感想が持ちにくい読書もまた然りです。それもまた人生に欠くべからざる、ある動作(たとえば経済活動)をするために全く有効なものです。軽んずべからざるものです。
しかし、やはり、一冊の本を、自分の魂のような、心のような、思いのような、そんなものを揺らがせ、戦がせ、ざわめかせ、燃え上がらせ、ふと想いより我に返ったりしながら読むのはやはりいいものです。生きる目的足りえる、優れて人間にしかできない営為です。
さて、私は表題の書「自分のなかに歴史をよむ」と言う、一冊のちくま文庫を数日かけて読みきりました。200ページ強の文庫本ですから、入門書的な人文書ならば数時間で読める本です。昔の自分なら展開が楽しみで、すぐに読んでしまったでしょう。
でも、それはこの薄い文庫本をゆっくり読んで、自分の中にある、ある焦りと愚かしさの為せる業であり、時間が自分を本をゆっくり読める人間にしたのだ、と感じました。
この本は、高校生向けに(そう、17歳くらいの人向けに)阿部謹也と言う、高名な歴史家が記したものです。
私は読み進めて思いました。この本に17歳のときであっているべきだったのか、勿論然り。しかし、出会っていたとして理解できただろうか。否。残念ながらそれが答えでした。
この本の最初の版は筑摩書房刊の同題名の単行本で1988年3月刊です。まさに私が高校生だったときです。この後、阿部氏は一橋大学の総長となり、私は別の大学で学生をしているときに、自治会活動の中で阿部氏が大学改革の中で一橋大学の学生自治会と交渉する姿をわき目で垣間見ることになります。氏は私の人生をかすかに、ほんの微かにだけ実際に横切った人間です。
氏は私の卑小な認識を超えてはるかに偉大な存在であることは、網野善彦氏の著作や対談を通じて、ありありと思い知らされました。そして、あの「ハーメルンの笛吹き男」を私も読みたいなあ、とたまに頭の片隅をよぎるのでした。実際に氏の著作にふれたことはあるのですが、文体はやわらかく理解は平易に見えて、内容の濃さに圧倒されて行き疲れると言うパターンが多かったです。
この本も、これが高校生むきか、と驚きました。配慮は張り巡らせてあって、平易に理解しやすく噛み砕いてあるのですが、内容の面の妥協がまるで感じられません。17歳向けの本に、またも37歳の私は敗北するのかな、と微かに思いましたが、今回は氏の教育的な配慮の賜物で読みきることができました。そう、たった200ページの本なのに、読みきれてうれしいのです。
知的に啓発され、知的に課題を与えられたのがわかるのです。
上原専禄と言う、やはり戦後一橋大学総長を努めた歴史家がいます。この人こそ、阿部氏の師匠です。上原氏と阿部氏の間でやり取りされた「学問に誠実な人同士のすがすがしい関係」については、その部分だけで本書定価600円をはるかに超える価値のある記述であるとあえて断言します。
余談ですが、私は、この本を何気なくブックオフで350円で買いましたが、読み終わったあと、丁寧に350円の値札を剥がしました。氏は物的関係に終始しない歴史の登場人物たちの文化的なつながりの側面を究めようとしたのですが、私にはこのあからさまで無礼な値つけがなぜか疎ましかったのです。
さて、上原氏は阿部氏に卒論のテーマを相談するうちにこの一言を得ます。
「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」。
阿部氏はこの言葉を聴いて、もうほかの質問はできなくなったそうです。
私のごとき阿呆ならば、この言葉の重みをわきまえずに分かりもしないで腰の定まらない質問を繰り返したと思います。それは、20台の私のしてきたことですから手に取るように感じます。
氏は3ヶ月も考え続けるのです。この誠実さこそが、知的営為に品性を与えるのだなあ、と思いました。いわゆる頭のよさとは違った「賢さ」とはこういうものなのだなあ、と感じ入りました。
この本について書きたいことはいくらもあるのです。でもこのくらいにしておきます。
氏はこの本で歴史を自分の人生のなかで捉えなおして提示して見せます。氏の人生は「阿部謹也小史」であることにとどまらず、「歴史」を内包しているのです。氏は歴史に関わることを「内面化」したのです。これはいわゆる「業績」とは違った、「偉業」に感じます。つまり、氏は幸福の問題を(暫定的にであるにせよ)解決したのかもしれないのです。自分がそうしなければ生きてゆけないものを生きることこそが氏の幸福で、それが歴史だったのです。
氏はあとがきで「本書は私の理解した限りでの歴史研究という、きわめて狭い範囲のものであることをお断りしておきたい」と言います。でも注目すべきは、その前の言葉です。
「・・・私にとって歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内奥と呼応しない歴史を私は理解することはできない・・・」
自分のしていることが理解の段階に及ぶと言うことは、確かに、「内奥に呼応」しないと不可能に近いのではと思います。
でも、生きると言うことを率直に歴史の入門書にできてしまうほど、自分の課題に誠実だった人生に、私は畏敬しました。
間違いなく良書です。内容の肯定否定すら、超越して良書だと言える本に始めて出会った気がします。
- 作者: 阿部謹也
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/09/10
- メディア: 文庫
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読書はしていますが・・・。(雑感)
仕事の読書も多いし、趣味でも読むのですが、入れこんでしっかりと感想を書ける本に当たれていません。
コミックも面白い、と感じるところまでは行くのですが、感想を書こうとすると萎える・・・。
そんなこんなで暑い夏が過ぎました。
ウィトゲンシュタインへの興味が持続しています。
感想を書きたくなる寸前まで、気持ちが盛り上がってはいるんですが、論理学というのは、私が最も苦手とする分野で、見識が皆無に近いのです。
でも、なぜかウィトゲンシュタインに惹かれるのです。『論考』の1922年英独対訳版まで買ってしまいました。もちろん読めやしません。第1から第7までのテーゼがどんなドイツ語表現になっているかに興味がありました。英語がありがたく感じますね(苦笑
感想が上げられるといいのですが・・・。